
太平洋戦争中の昭和20年(1945)2月、米軍は焼夷弾を用いた無差別空襲を開始し、東京をはじめとする大都市への攻撃を重ねていく。それを食い止めるべく、日本陸海軍の防空隊も果敢に挑んでいくが...。敗色濃厚となった中で、彼らはいかに戦ったのか。東京大空襲に至るまでの戦いに迫る。
※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです
「超空の要塞」B-29爆撃機が日本に初空襲を行なうために中国の成都を飛び立った昭和19年(1944)6月15日、西太平洋に浮かぶマリアナ諸島のサイパン島に米軍が上陸を開始した。
翌月には米軍はサイパン島を占領し、マリアナ諸島を発進基地とする日本本土空襲が始まるのは、時間の問題となった。
サイパン島から東京までの距離は約2350キロメートル。その中間点に位置する硫黄島から、日本軍はマリアナ基地に対して陸海軍共同の航空攻撃を実施した。
時には数機のB-29に損害を与えたが、逆に米軍の硫黄島攻撃を呼び込むかたちとなった。昭和20年(1945)2月に米軍の硫黄島上陸作戦が行なわれ、日本軍のマリアナ攻撃は打ち切られた。
東京では、昭和19年11月に入ると、マリアナ諸島からの偵察機が飛来するようになった。一万メートルを超える高高度で侵入する偵察機を、日本軍戦闘機は捕捉することができない。
フィリピンでは前月から米空母に体当たりする特別攻撃(特攻)が始まっていたが、関東地区の防空を担う陸軍第10師団でも空対空の特攻隊が編成された。体当たり機は軽量化のために武装や防弾鋼板が除去された。
11月24日、マリアナ諸島を発進した大編成のB-29が初めて日本本土を襲った。高度一万メートル前後で侵入するB-29の主な標的は、東京の中島飛行機武蔵製作所だった。
迎撃に飛び立った日本陸海軍戦闘機は、素早く短時間で関東上空を通過するB-29に対して、反復攻撃を仕掛けることが困難だった。陸軍飛行第四七戦隊の見田義雄伍長機は体当たり攻撃を敢行し、B-29を撃墜した。
その後も、米軍は日本各地の軍需工場などを目標とする精密爆撃を続けた。しかし、高高度からの爆撃で標的を捉えることは難しく、また日本軍からの体当たり攻撃を含む激しい抵抗で、望ましい効果を挙げられなかった。
米軍は日本本土上陸作戦が企図されている昭和20年末までに、日本の抵抗力を大幅に減少させておきたかった。そのためには、直接の軍事目標だけでなく、日本の戦争遂行能力そのものを破壊し、国民の戦意まで喪失させることを目的とした戦略爆撃が必要だった。
昭和20年1月、マリアナ基地からの日本空襲の指揮官が、精密爆撃に固執するヘイウッド・ハンセル准将から、ドイツ戦線で都市への無差別爆撃を断行したカーチス・ルメイ少将に替わった。
同時期、日本軍では初となる陸海軍共通作戦計画である陸海軍作戦計画大綱がまとめられ、最終的に本土決戦に持ち込む方針が明文化された。
新指揮官となったルメイ少将は2月25日、初めて東京に無差別空襲を行なった。大規模焼夷弾空襲のテストケースである。これまでで最多となる229機のB-29が出撃し、450トンの焼夷弾を投下した結果、神田や四谷などで約19万戸が焼失した。
この爆撃の結果は、アメリカでの実験で導き出された、1700トンの焼夷弾で日本の一都市を破壊できるという推算を実証するものだった。
ルメイはこの成果に満足した。また、「日本軍には低高度用の対空火器が少ない」「夜間戦闘機にはレーダーがなく機数も少ない」との情報もあり、ルメイは夜間に焼夷弾のみを搭載したB-29で低空から侵入して無差別爆撃を行なうという方針を決定した。
その第一弾が、3月10日夜間に行なわれた東京大空襲である。9日午後、焼夷弾を満載した325機のB-29が、マリアナ諸島を離陸した。この日、東京近郊では20から30メートルの強風が吹いていて、電波警戒レーダーが正常に作動しなかった。
午後10時過ぎ、千葉県勝浦南方に少数の不明機が認められ、第302海軍航空隊(=302空、厚木航空隊)から夜間戦闘機「月光」4機が発進し、警戒警報が発令された。だが、東京の空を守る第10飛行師団では何ら対策を打たないままに、不明機は飛び去ってしまった。
10日0時8分、B-29が東京の江東方面の上空を南から北へ駆け抜け、焼夷弾を落とした。0時15分、東京で初めての空襲警報が発令され、第10師団長の近藤兼利中将は直ちに夜間出動可能な全機に出動を命じた。
だが、第10師団には夜間戦闘が可能な保有機も、夜の飛行を充分にこなせる搭乗員も少なく、日本軍の戦闘機はB-29を1機も撃墜できなかった。各所で発生した火災はあっという間に拡大し、死者7万人以上、焼失戸数27万戸の被害を出した。
更新:06月04日 00:05