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紫式部が『源氏物語』に脚色して取り入れた「夫・宣孝と死別した経験」

古川順弘(文筆家)

紫式部 清少納言

平安時代中期、多くの文学作品が誕生した。長編小説や日記、随筆、和歌......。文学性に優れ、歴史的価値の高いこれらの作品を残した「作家」たちは、いかなる人物で、どのような人生を歩んだのか。本稿では、紫式部、そして清少納言について紹介する。

 

自身の体験を物語に投影・紫式部 生没年不詳

和泉式部が敦道親王と熱愛に浸っていた頃、同じ平安京の片隅では、夫を亡くしてまもない一婦人が一大長編小説を書きだしていた。むろん、紫式部の『源氏物語』のことである。

紫式部は、蔵人や越前守などを歴任した藤原為時を父として生まれた。やはり中流貴族である。本名は不明、生年については諸説があるが、西暦970年代とする点ではおおむね一致する。和泉式部とだいだい同世代である。

優れた漢詩人でもあった父親の影響で、少女時代から書物に親しみ、そのことが類いまれな文才を育むことになったらしい。

長徳4年(998)頃、またいとこにあたる藤原宣孝と結婚。宣孝は紫式部よりかなり年上だったようだが、二人の間にはまもなく娘が生まれる。ところが、長保3年(1001)、宣孝は急逝してしまう。疫病に罹ったのだろうといわれている。

寡婦となった紫式部は、しばらく閑居したのち、寛弘2年(1005)頃から一条天皇の中宮彰子に女房として仕えるようになる。この宮仕え時代の記録が『紫式部日記』で、彰子の出産や宮廷生活の内実が活写されていることで知られている。

『源氏物語』がいつ書きはじめられ、いつ閣筆されたのかといったことは、はっきりわかっていない。だが、夫の死後つれづれを紛らわすべく筆をとりはじめ、宮仕え以降も宮廷での見聞も材料にして書き継いでいったのだろう、というのが定説のようなものになっている。

全五十四帖から成る長大な『源氏物語』の内容を、今ここに解説するいとまはないが、一つ強調しておきたいのは、この物語は、読書好きの内気な女性が、部屋の中に籠って空想を凝らして作り上げた「お話」などでは決してない、ということだ。作者自身の体験や見聞が巧みに料理されたうえで、洗練されたフィクションへと昇華されている痕跡を、物語中の諸所に見出すことができるからだ。

「夕顔」帖を例に挙げてみよう。この帖には、「光源氏が隠れ家で恋人夕顔と密会して月夜を過ごすも、夕顔は物の怪に襲われて急死してしまう」という怪奇的なストーリーが展開しているのだが、この話は、紫式部の時代に実際に起きた事件をモデルにしているのではないかといわれている。

その事件とは、具平親王(村上天皇皇子)が「大顔」という名の愛人を連れて嵯峨の遍照寺へ観月に行くも、大顔が急死してしまった、といったものだ。

その後、光源氏は、夕顔の火葬の煙を雲に見立てて「見し人の煙を雲とながむれば夕の空もむつましきかな」と詠み、その死を悼むのだが、この和歌については、紫式部が夫宣孝の死に際して詠んだという和歌「見し人の煙となりし夕べより名ぞむつまじき塩釜の浦」(『紫式部集』収載)との類似がかねて指摘されてきた。紫式部は唐突に訪れた夫との死別という体験を、器用に脚色して物語中にさりげなく投影させたのだろう。

『源氏物語』は、作者の研ぎ澄まされた観察眼にもとづいて書かれた写実小説なのである。そして、このことが土台となって、男女間の人情の機微や人間の宿命への詠嘆が見事に描き出されている。

紫式部の晩年や没年もまたよくわかっていない。一条天皇没後も、皇太后となった彰子に引き続き仕えたのはまず間違いないとされるが、再婚した形跡はない。自立した女性として生きつづけたのではないだろうか。

 

鋭敏な感性で、宮廷生活を活写・清少納言 生没年不詳

随筆文学の古典『枕草子』の作者である清少納言もまた生没年は不詳だが、康保3年(966)頃の生まれと推定する説が知られている。紫式部や和泉式部よりは、やや年上ということになる。

清少納言というのは女房名で、清は姓の清原氏の略だが、少納言の由来は不明。本名もまた不明である。

父は歌人として知られた清原元輔で、清原氏は天武天皇の皇子舎人親王の後裔である。清少納言は天元4年(981)頃に陸奥守橘則光と結婚し、子ももうけるが、夫婦仲はあまりうまくいかなかったらしく、やがて離別する。

正暦4年(993)頃から、一条天皇の中宮だった定子の女房として宮廷に出仕する。定子の父親は藤原道隆で、清少納言が宮廷に入った頃は、定子のライバルとなる道長(道隆の弟)の娘彰子はまだ入内していない。当時は道隆が関白、道隆の子伊周が内大臣で、道隆一族(後年、中関白家と呼ばれる)の全盛期だった。

そんな時代を背景とした、一条天皇と中宮定子を中心としたきらびやかな宮廷社会を、作者の鋭敏な感性によって鮮やかに活写したのが、『枕草子』なのである。

成立期については議論があるが、長保3年頃には大部分が書かれていたとみるのが主流である。約300の章段から成り、それらは「山は......」「すさまじきもの......」といったスタイルで事象を列挙していく「類聚章段」、宮中での見聞を日記風に記した章段、純然たる随想の章段の3つに分類される。いずれにも分類しにくい章段もあり、「春はあけぼの」ではじまる有名な冒頭章段は、類聚と随想の混成とされる。

清少納言自身は跋文で「目に見え心に思ふ事」を書き綴ったと記しているが、宮廷生活の賛美に徹しているのが『枕草子』の第一の特色だろう。定子の気品あふれる美しさ、天皇と定子の仲睦まじさなどが、エピソードをまじえて大仰と思えるほどに描写されている。

このような陽性の描写とは裏腹に、長徳元年の道隆の病死を機に、中関白家の栄光はかげりだし、道長が政権を掌握しはじめる。これに伴って定子の境遇もかげってゆく。

やがて彰子が一条天皇の女御となり、長保2年(1000)には中宮に。定子は皇后にスライドするが、この年の暮れ、内親王を出産してまもなく、25歳の若さで没してしまった。こうした定子たちを襲った悲哀・不運については、『枕草子』は徹底して沈黙している。

清少納言も、中関白家の没落にしたがって定子とのつながりが薄れ、定子の死後には宮仕えを完全に退いたとみられている。和泉式部・紫式部が彰子後宮に入るのは、この後のことだ。

そして、『枕草子』が完成していた頃には、一条・定子夫妻のもとで繰り広げられた華やかな宮廷舞台は完全に過去のものとなっていた。その意味では、『枕草子』とは、定子後宮に捧げる壮大な墓碑銘であった。

その後の清少納言は再婚したらしいが、詳しい消息は不明である。晩年は鬼のような形相の尼僧になって茅屋に住んでいたとする説話が鎌倉時代の『古事談』に載っているが、ここに幾分かの事実が含まれているのだろうか?

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