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甘党だった牧野富太郎が“菓子店で恋した二人目の妻”...その生い立ちとは?

2023年08月08日 公開

鷹橋忍(作家)

 

祖母・浪子の死...25歳・明治20年(1887)

『植物学雑誌』の創刊号が出た明治20年は、悲しい別れも訪れている。

祖母の浪子が、5月6日に亡くなったのだ。富太郎、25歳の年のことである。享年77。戒名は智海妙信浪女という。

浪子は常に富太郎の味方で、興味を抱いだいたことは何でも好きなようにやらせた。本当は家業に専念してほしかったであろうに、それでも、富太郎の研究や上京のための資金もふんだんに与え、余計な干渉はしなかった。浪子が無理に家業を継がせていたら、富太郎が世界的な植物学者になることもなかっただろう。

しかし、富太郎にとって浪子は、理解ある優しい祖母であるのと同時に、彼を佐川につなぎ止めていた枷でもあった。浪子の死により、富太郎の枷は外れた。彼の心を佐川に引き留めるものは、もう何もなくなっていた。

祖母が亡くなっても、富太郎は岸屋の主人に収まることなく、植物の研究を続けている。

同年7月にはロシアの植物学者カール・ヨハン・マキシモヴィッチ(1827~1891)に手紙と標本を送り、9月15日付で返信を貰った。

マキシモヴィッチは、東洋植物研究の権威として名高く、幕末に来日している。生まれはモスクワ近郊のツーラ。ドルバット大学で医学を修めたのちに、植物学に転じ、1852年、サンクトペテルブルクのロシア帝立植物園の腊葉(さくよう:植物を平に押し広げ、乾燥させた標本のこと。押し葉ともいう)係となった。

1853年に世界周遊帆船ディアナ号に乗船し、黒竜江や満洲(現在の中華人民共和国の東北部)の植物を調査している。万延元年(1860)には箱館(現在の函館市)に来航し、この地方の植物を1年にわたって研究した。

富太郎が生まれる前年の文久元年(1861)には横浜を、文久3年(1863)には長崎付近を1年間、調査採集した。1871年にはロシア科学アカデミー会員となっている。

このマキシモヴィッチに、田中芳男、矢部田良吉、松村任三ら日本の植物研究者は皆、採集した標本を送り、鑑定を受け、学名を決めてもらっていた。当時の日本は標本も文献も不足していたため、植物に学名をつけることができなかった。そこで、外国の学者に標本を送り、鑑定を依頼していたのだ。

翌明治21年(1888)、家業を番頭に任した富太郎は、四度目の上京を果たす。そして、いよいよ運命の女性・小沢壽衛と出会うことになる。

 

壽衛との出会い...26歳・明治21年(1888)

四度目の上京の際、富太郎が下宿としたのは、同郷の若藤宗則の家の2階であった。

浪子が亡くなってからも、実家からの仕送りはたっぷりあったのだろう。富太郎は、麹町三番町(現在の東京都千代田区)にあったこの下宿から本郷の植物学教室まで、人力車で通っていたという。

この植物学教室への道中には、「小沢」という名の小さな菓子店があった。その菓子店の店先にときおり座っていたのが、富太郎の二番目の妻となる小沢壽衛であった。

富太郎は酒屋に生まれながらも、いっさいアルコール類は嗜まない。煙草も吸わなかった。その代わり、かなりの甘党であった。小沢菓子店にも自然に目が行き、壽衛を見初めたのだ。富太郎26歳、壽衛15歳の年のことである。

富太郎は毎日のように、人力車を止めて小沢菓子店に立ち寄った。富太郎の恋心は日増しに燃え上がっていったが、恋はなかなか進展しなかった。

なぜなら、富太郎が話しかけようとすると、壽衛は真っ赤になってうつむいてしまうからだ。富太郎いわく、当時の若い女性は、知らない男とは簡単に口をきかないものだったという。

富太郎は壽衛の名前すら、聞き出せなかったようで、印刷技術を習っていた石版印刷屋の主人・太田義二に「小沢菓子店の娘との仲を取りもってください」と助けを求めた。

太田は富太郎から相談を受けると、小沢菓子店に赴いた。そして、壽衛の母親に話を通し、見事に仲を取りもってくれた。壽衛も、毎日のように人力車で菓子を買いに来る富太郎に、興味と好意を寄せていたのかもしれない。

明治21年10月には、根岸(現在の東京都台東区)の御院殿跡にあった村岡家の離れを借り、所帯を持ったようだが(渋谷章『牧野富太郎 私は草木の精である』)、富太郎は自叙伝で明治23年(1890)ごろと述べている。

いずれにせよ、壽衛は富太郎の二番目の妻となった。仲人は太田が務めている。10月には第一子となる園子も誕生した。この後、13人もの子を産み、経済観念が著しく欠如した夫を支えることになる壽衛であるが、富太郎と出会う前は、どのように暮らしていたのだろうか。

壽衛は明治6年(1873)に、小沢一政の次女として、東京で誕生している。母親は「あい」という名の、京都生まれの勝ち気な女性であったという。

父親の一政は、彦根藩主・井伊家の家臣だった。明治維新後は陸軍の営繕部に勤めていたが、数年前に死去している。

父親の存命中、壽衛の一家は、飯田町の広大な邸宅で暮らしていた。邸宅の表は飯田町六丁目通り、裏は皇居のお濠の土手で、その間全部を占めていた。この邸宅の跡地は、明治15年(1882)に全国の神職団体が設立した、皇典研究と神職養成「皇典講究所」(現在の東京区政会館のあたり)となった。

邸宅の広さからも想像できるように、壽衛の家は、富太郎の実家と同様に裕福であった。父親が生きている間は、踊りや唄、お花やお茶などを習い、非常に華やかで恵まれた生活を送っていた。

ところが、父の死により生活は激変する。広大な邸宅も、その財産も失った。母・あいは生活のため、壽衛ら数人の子どもを連れて、多額の借金を抱えたまま菓子店を営みはじめた。壽衛はその菓子店を手伝っていたときに、富太郎に見初められたのである。

父親が亡くなってからは、一転して貧しい生活を送ってきたとされる壽衛だが、富太郎との結婚後に訪れる経済的な苦難は、その比ではなかっただろう。

「来る年も来る年も左の手で貧乏と、右の手では学問と戦った」と称する富太郎だが、そんな彼を支えるという、「内助の功」というひとことで片付けるにはあまりにも過酷な、壽衛の献身の日々がはじまろうとしていた。

 

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