2023年04月24日 公開
2023年10月04日 更新
生涯、草花を愛し続けた牧野富太郎(高知県立牧野植物園)
植物分類学の父・牧野富太郎。何よりも草花を愛し、研究に没頭した牧野だが、一体どのようにして植物への興味を育んだのだろうか。その答えは、牧野が生まれ育った高知県・佐川町にみることができる。自然溢れる、牧野の故郷を紹介する。
高知県立牧野植物園からみた四国山地の山並み
土佐・高知は、坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太といった幕末の志士や、板垣退助や後藤象二郎、岩崎弥太郎など明治維新期の偉人を多数輩出し、雄大な太平洋に面した桂浜など「海の国」のイメージが強いが、県の総面積に占める森林率は84%(全国平均67%)という全国有数の「山の国」であることは意外と知られていない。
四国山地から伐り出される土佐の良木は古くから重要な特産物として活用されており、江戸の慶長年間には駿府城の普請時に一万本が献上されている。
また、温暖な土佐の山野の気候は、製紙の原料である三椏(みつまた)や楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)の生育にも適しており、古くから(日本三大和紙の一つである)土佐和紙がつくられ、平安時代の「延喜式」のなかに紙の産地として土佐の記述がある。
1000年保つといわれる土佐和紙は、美術品や書道品の原料として重宝されてきた。加えて土佐は農産物の一大生産地でもあり、ニラ、ナス、ショウガは、日本一の生産量を誇るなど、まさに「山の幸」に恵まれた県といえる。
紙幣の原料となる三椏(みつまた)が咲き誇る(佐川町・牧野公園)
高知県中西部の山間の盆地にある佐川町
植物分類学者の牧野富太郎は、土佐の山間の佐川村(現佐川町)で造り酒屋を代々営む商家「岸屋」の一人息子として生まれた(幼名・成太郎。6歳で富太郎に改名)。
佐川町は、高知市街から約28㎞、クルマで約40~50分、高知から松山へ向かう街道筋の四方を小高い山に囲まれた、仁淀川支流・春日川の流域に発達した集落である。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの後、主君の山内一豊の勲功に伴って土佐へ入部した筆頭家老・深尾重良が初代佐川領主に任命され、江戸初期から幕末まで代々佐川領主を務めた。
牧野の生家は、近郷まで名が知られた豪商であり、深尾家の御用を務めて苗字帯刀も許されていた。牧野は3歳のときに父・佐平を、5歳で母・久壽を亡くし、実質的な育ての親は祖母・浪子であった。
浪子は番頭の佐枝竹蔵とともに岸屋を切り盛りしながら孫の富太郎を一人前に育てた。浪子は、和歌はもとより書にも長けた教養人であった。
牧野富太郎の生家「岸屋」跡地に建てられた「牧野富太郎ふるさと館」
佐川にはいまも城下町の商家の街並みが残されている。佐川に酒造が発達したのは、深尾重良が、仁淀川水系の伏流水に恵まれた土地であることに目をつけ、お抱えの酒造職人を佐川に連れてきたためと伝わる。
最盛期は数軒の酒造があり、牧野の実家の「岸屋」も酒造を手がけていたが、統廃合の末、「司牡丹酒造」が佐川の酒造りを受け継いでいる。
酒蔵や旧商家を中心とした歴史的建造物が建ち並ぶ(上町地区)
「司牡丹酒造」
牧野は生家の裏山の「金峰神社(きんぷじんじゃ)」
牧野は、明治5年(1872)、10歳で土居謙護の寺子屋に通い始めた。習字や読み書きそろばんはもちろんのこと、生来の負けず嫌いも手伝って何をしても友達に負けなかったという。
遊びのほうも活発で生家の裏山を登った頂上にある金峰神社(きんぷじんじゃ)へ寺子屋の帰りに立ち寄って、木登りをしたり、木の実を採ったり、草花を摘んで遊んだと自伝で振り返っており、境内に咲く梅花黄連(バイカオウレン)などの植物を採取し、自然への興味を広げていった。
その後、寺子屋が廃止されたことで、牧野は町外れにある伊藤塾へ通い直した。塾頭の伊藤蘭林は漢学の大家であり、「佐川山分学者あり」と言われる大学者であった。
牧野が和漢の植物学書において他の植物分類学者の追随を許さない素養を持っていたのは、伊藤蘭林に学んだことが大きいと考えられる。
復元された「伊藤蘭林の寺子屋」
更新:12月12日 00:05