牧野富太郎(国立国会図書館蔵)
NHK連続テレビ小説『らんまん』の主人公のモデルである牧野富太郎。「日本植物学の父」と言われるほど誰もが知る学者であるが、実は恩師の主任教授に教室を追放された経験を持っている。牧野を窮地に突き落とした「恩師との確執」とは? 波瀾万丈な生涯を送った牧野富太郎の魅力を、作家の鷹橋忍氏が紹介する。
※本稿は、鷹橋忍著『牧野富太郎・植物を友として生きる』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
富太郎に植物学教室への出入りを禁じたのは、主任教授の矢田部良吉であった。
富太郎が2年前に刊行を開始した『日本植物志図篇』は、明治23年の1月に第一巻第五集、3月に第一巻第六集が順調に続刊されていたが、出入り禁止となったのは、その『日本植物志図篇』が原因であった。
矢田部は「植物学教室でも、『日本植物志図篇』と同じような本を出版することが決まったから、今後は大学の書物や標本を見せるわけにはいかない」と一方的に宣言したのだ。
二度目の上京を果たした際、植物学教室を訪ねた富太郎を温かく迎え、教室への出入りや資料・標本を見ることを許してくれたのは矢田部である。自宅に招かれ、ご馳走になったこともあった。
富太郎はこの仕打ちが、信じられなかった。彼は矢田部の麹町富士見町(現在の東京都千代田区)の邸宅を訪ねて訴えた。
「今の日本に、植物の研究者は極めて少ない。一人でも排除し、研究を封じるのは、学界の損失であり、植物学の進歩を妨げることになる。また、先輩には後輩を引き立てる義務があるはずだ」
言葉を尽くして撤回を求めたが、矢田部は聞き入れなかった。こう書くと、一方的に矢田部が悪いようにみえるが、富太郎にも配慮が足りない部分があった。
富太郎は出版にあたり、大学の資料を使用しているにもかかわらず、矢田部の許可を得ておらず、『日本植物志図篇』に大学や教授への謝辞をひとことも載せていなかった(上村登『花と恋して─牧野富太郎伝』)。そんなところも、矢田部の気に障ったのかもしれない。
この植物学教室追放事件に関しては、富太郎に同情的な意見が多かった。親友の池野成一郎は、自分のことのように怒りをあらわにしたという。
しかし、もともと学生でも職員でもない富太郎が、日本一の学問の場である植物学教室に出入りできたのは、ひとえに矢田部の好意によるものである。
その矢田部に拒絶された以上、為す術がない。富太郎は悔し涙を流しに流した。
だが、ここで諦める富太郎ではない。彼は起死回生の一手を思いつく。ロシア行きである。
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ロシア行きを計画...28~29歳・明治23~24年(1890~1891) >
更新:11月21日 00:05