富太郎を含む日本の植物学者たちは、ロシアの植物学者・マキシモヴィッチに標本を送り、鑑定を受けていた。
富太郎が送る標本は珍しいものが多く、マキシモヴィッチも喜んでいた。彼は自分の著書を献本する際に、植物学教室に一部、富太郎に一部送っている。『日本植物志図篇』にも絶賛の手紙を寄せている。
このマキシモヴィッチを頼り、富太郎はロシアへ行こうと企てたのだ。
このころには、富太郎の標本も、よりいっそう充実していた。これを携えてロシアへ渡り、マキシモヴィッチの研究の手助けをしようと、彼は考えた。
だが、一つ難点があった。ロシア行きを仲介してくれる人がいないのだ。
ここでも富太郎は、持ち前の行動力を発揮する。日本におけるロシア正教布教の拠点、駿河台(現在の東京都千代田区)に建つニコライ堂を訪ね、主教に事情を打ち明けて、頼み込んだのだ。
富太郎の熱意に打たれたのか、主教は快諾し、すぐにマキシモヴィッチへ手紙を書いた。このときのマキシモヴィッチ宛ての手紙が残っている。
高知県立牧野植物園図録『牧野富太郎とマキシモヴィッチ』から抜粋、要約すると、以下の通りだ。
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牧野氏は大変に感じが良く、見たところとても親切で、しかも有能な青年です。両親はいないが妻はいます。土佐の出身です。牧野氏を植物の研究のために、あなた(マキシモヴィッチ)のもとに行かせて頂けませんか。彼はペテルブルクまでの旅費は持っていますが、そこで暮らすための費用は持ち合わせていません。ロシアで彼が衣食を得るために、あなたから植物採集と植物園での仕事を世話して頂けないでしょうか。
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池野成一郎はロシア行きに大反対していたが、富太郎が一日千秋の思いで返事を待っているうちに、明治23年は終わった。
翌明治24年、富太郎の夢と希望は、ロシアからの一通の手紙によって、もろくも崩れ去ることになる。
その手紙を書いたのはマキシモヴィッチ本人でなく、彼の令嬢であった。手紙によると、ニコライ堂の主教から富太郎のロシア行きを依頼する手紙が届いたとき、マキシモヴィッチは流行性感冒(インフルエンザ)に感染し、病の床についていた。
彼は、富太郎の不遇な立場に深い同情を寄せ、ロシアに来ることを非常に喜んだ。しかし、同年2月16日、帰らぬ人となってしまったという。富太郎のロシア行きの計画は、叶わぬ夢となったのだ。
もし、このときマキシモヴィッチが病没せず、富太郎がロシアに渡っていたら、彼の人生はもとより、日本の植物学界の将来も大きく変わっていただろう。
深い悲しみと絶望に陥った富太郎を励まし、新しい道を切り開いてくれたのは、池野成一郎と、帝国大学理科大学植物学科の学生で、のちに東京帝国大学の教授となる藤井健次郎(1866~1952)であった。
二人の尽力によって、富太郎は駒場の帝国大学農科大学(のちの東京大学農学部)の一隅に、研究の場を得た。
これによって、富太郎は失意から立ち直った。矢田部に対抗するべく、中断していた『日本植物志図篇』を、第7集からは再び毎月出版し、第11集まで刊行した。
まだ日本では新種に学名をつける植物学者は少なかったが、第7集からは卒先して学名をつけ、欧文で解説を加えた。ムジナモの写生図も、この帝国大学農科大学にいるときに描かれている。
更新:11月22日 00:05