「直江状」について、もっとも子細に分析し、内容に疑義を唱えたのが宮本義己氏の一連の研究である。宮本氏は、当時の政治的状況などを十分に踏まえて、これまでの「直江状」の研究を一新した。以下、その要点を記しておきたい。
第一に宮本氏が注目したのは、書かれた文言である。敬語の使い方や書札礼(手紙の様式)に加え、通常はなじまない用語について疑問点を指摘している。先述のとおり、漠然とした意味で偽文書と指摘する論者はいたが、具体的に多くの事例を取り上げたのは、宮本氏が最初ではないだろうか。
たとえば、増田長盛と大谷吉継の二人に対しては、「増右」「大形少」と言った省略形を用いており、「増田右衛門尉殿」「大谷刑部少輔殿」と書いてはいない。つまり、豊臣政権を担う人物に対して、きちんとした敬称を用いないのは無礼であり、兼続はいささか常識からかけ離れた表現をしていた。
慶長5年4月8日付の島津家久書状によると(『旧記雑録後編』)、来る慶長5年4月10日に伊奈昭綱と河村長門の二人が会津に向かうため、伏見を出発する予定だったことが判明する。
「直江状」の前書によると、二人の使者が会津に到着したのは4月13日になっているので、わずか3日で到着したことになる。当時、京都から会津に行くには、2週間前後はかかるので、大いに不審である。このような理由もあって、「直江状」の内容に疑義を提示している。
宮本氏の結論は、「直江状」が偽文書というよりも、後世の人物による改竄あるいは捏造であると指摘する。
「直江状」の評価は偽文書説からはじまり、やがて肯定に転じ、留保付きの肯定が主要な説となった。そして再び後世の捏造、改竄という説が提起された。
筆者の印象としては、「直江状」が読みやすい点に不審を覚える。概して中世の古文書は非常に内容が抽象的で、背景をある程度理解していないと読みづらい印象がある。言葉も難解なものが多く、それもまた内容の理解を妨げる要因である。
一方、「直江状」は往来物のテキストになるほど、用いられた言葉も比較的身近なもので、非常に内容がわかりやすい。
また、これだけ長文でかつ微に入り細を穿ち、詳しい事情を語っている史料も珍しいといえる。当時でも長文の文書は珍しくないが、「直江状」はそれぞれの説明があまりに丁寧である。
しかも、同じような内容の繰り返しも非常に気になる。関ヶ原合戦に関わる書状の写には似たような例が多く、疑問視されるものも少なくない。
宮本氏の文言上の指摘も勘案すると、「直江状」を当時の古文書とするには、いささかの疑念を持たざるを得ない。つまり、留保付きの肯定ではなく、「直江状」は後世の創作、捏造、改竄であると疑わざるを得ない。いずれにしても、「直江状」の真偽を確かめるためには、原本の出現を待つしかないだろう。
ところで、笠谷和比古氏は近著『論争 関ヶ原合戦』(新潮選書、2022)で、改めて「直江状」が偽文書ではないと反論をされた。
筆者を含めて「直江状」が偽文書であると主張する論者は、(1)文言に不自然な箇所があること、(2)内容に重複が多いこと、(3)西笑承兌の詰問状と「直江状」の日付と届けられた日時の齟齬、(4)「三中老」の存在をめぐる問題、(5)「直江状」の執筆者が「内府ちかひの条々」を参照して偽作したこと、(6)「直江状」は上杉氏の敗戦の責任を直江兼続に負わせるため創作されたこと、などがある。
このうち、いくつかの論点について考えてみよう。
(1)(2)について笠谷氏は、兼続が筆の勢いに任せ、一気呵成に激情にかられて書いたこと、また兼続と西笑承兌は旧知の間柄だったので、砕けた表現も十分にありうると指摘する。しかし、前者については、外交文書なのだから、十分に推敲しないまま相手に送るとは常識的に考えられない。
さらに、兼続と西笑承兌は旧知の間柄とはいえ、実質的には上杉景勝が徳川家康に宛てて送った文書である。当時は当主間で直接書状をやり取りするのではなく、取次を通して行った。
したがって、「直江状」は家康に見せるのが前提なので、お互いのカジュアルな関係で書く性質のものではないといえる。
(3)について笠谷氏は、慶長5年4月1日付の西笑承兌の詰問状(『関原軍記大成』所収文書)の送付に先立って、4月1日に同内容の書状を飛脚が会津にもたらしたとする。そうなると、4月14日付の「直江状」の日付は齟齬がないと指摘する。
通説によると、4月10日に伊奈昭綱が西笑承兌の詰問状を託されて会津に向かったとされているので、それでは4月14日に到着が不可能である。
ところが、笠谷氏の説に従えば、4月14日付の「直江状」の日付は矛盾しないという。つまり、西笑承兌は最初に私的な書状として4月1日に詰問状を送り、第二段階として4月10日に伊奈昭綱が公式の詰問状を送ったということになろう。
笠谷氏は西笑承兌の詰問状の冒頭の「飛札」を「飛脚(がもたらした書状)」と理解されているようだが、むしろもう一つの意味の「急ぎの手紙」と解釈するのが妥当ではないか。そもそも、詰問状を送るのに、私的と公的の二段階に分けて送るという意味が理解できない。
(4)について笠谷氏は、三中老らが家康の会津征伐を諫止した文書(慶長5年5月7日付。『古今消息集』所収文書)を偽文書でないとし、その傍証として『毛利家乗』に所載の慶長5年4月28日毛利輝元書状案(毛利秀元宛)を挙げる。
この書状によると、たしかに生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴、長束正家、前田玄以らが家康の会津征伐を諫止しようとしたことがうかがえる。したがって、彼らが家康の会津征伐を諫止したことは、史実であると認められる。
ただし、慶長5年5月7日付の諫止状には、文面に不審な点が多いと感じられる。特に5月の文書にもかかわらず、出征を中止する理由として、「雪前の出征は大変なので、来春に出陣してはどうでしょうか」というのは不審である。
同時に、『毛利家乗』所収文書だけでは、三中老の存在を裏付ける根拠とならず、さらに職掌などを明らかにすべく検討が必要だろう。
(5)(6)については省略するが、私見として「直江状」は偽文書という感が拭えない。今後、さらに検討が進むことを期待したい。
更新:11月24日 00:05