歴史街道 » 本誌関連記事 » なにが明暗を分けた?九鬼水軍と塩飽水軍の意外な末路 信長と秀吉を支えた海の勢力

なにが明暗を分けた?九鬼水軍と塩飽水軍の意外な末路 信長と秀吉を支えた海の勢力

2026年02月18日 公開
2026年03月18日 更新

鷹橋忍(作家)

塩飽諸島全域の海路図(『塩飽嶋絵図』より、国立国会図書館蔵)塩飽諸島全域の海路図(『塩飽嶋絵図』より、国立国会図書館蔵)

戦国時代、海上交通を掌握し、大きな勢力を有した水軍。織田信長や豊臣秀吉らが天下統一を推し進める中で、その戦力を支えたのが九鬼水軍と塩飽水軍だった。九鬼嘉隆率いる九鬼水軍は、巨大な安宅船を駆使して木津川口の戦いで信長を助け、豊臣政権下では主力水軍として活躍した。一方、卓越した操船技術を持つ塩飽水軍は、物流や外交に必要不可欠な存在として独自の地位を築く。海を拠点に天下人たちを支えた2つの水軍が歩んだ意外な末路とは...。

※本稿は、『歴史街道』2025年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

嘉隆率いる海の勢力・九鬼水軍

村上水軍や毛利水軍に加え、著名な水軍といえば九鬼水軍だろう。

中世後期の九鬼氏は、志摩半島の波切(三重県志摩市)を拠点とした「海の勢力」である。九鬼氏など志摩の海の勢力は「志摩七人衆」などと呼ばれる地域的連合を形成し、室町時代には伊勢国司・北畠氏の支配下にあったという。(黒嶋敏『海の武士団 水軍と海賊のあいだ』)。

戦国時代に九鬼水軍を率い、その名を轟かせた九鬼嘉隆は、天文11年(1542)に生まれた。

嘉隆は永禄年間(1558-70)に志摩七人衆と対立して志摩を追われ、織田信長の家臣であった滝川一益を介し、織田方に仕えるようになったと伝わる。直属の上官は、信長の次男で、伊勢北畠家を継承した織田信雄だったという(黒嶋敏『海の武士団 水軍と海賊のあいだ』)。

 嘉隆は天正2年(1574)7月、伊勢長島の一向一揆との戦いで、安宅船と呼ばれる軍船10艘を率いて戦功をあげた。

天正6年(1578)の第二次木津川口の戦いでは、信長の命で建造した6艘の大船を率いて大坂湾に出撃し、敵船を引きつけて大砲を撃ち込み、撃破したという(『信長公記』)。

この功績により、嘉隆は志摩国七島と摂津国の野田、福島等で7000石の加増を得たとあり(『寛政重修諸家譜』)、この頃から志摩国の支配権を得たと考えられている。

本能寺の変で信長が討たれたのち、天正12年(1584)に、織田信雄・徳川家康と羽柴秀吉の間で小牧・長久手の戦いが起きると、嘉隆は秀吉方に与した。

以後、嘉隆は豊臣水軍の主力として、九州攻め、小田原攻め、朝鮮出兵などに参戦する。

文禄3年(1594)には、九鬼氏の居城として築かれた鳥羽城が完成したとされる。四方を海に囲まれ、大手門を海側に配した全国的にも珍しい海城で、水軍の将にふさわしい城だったという。

嘉隆は慶長2年(1597)になると、家督を息子の九鬼守隆に譲り、隠居した。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、嘉隆は西軍、守隆は東軍と親子分かれて戦った。西軍・東軍のどちらが勝っても、九鬼氏を存続させるための戦略だったといわれる。

守隆が徳川家康の会津征討に加わっている間に、嘉隆は鳥羽城を占拠するが、西軍の敗戦を聞くと、答志島に逃亡。

守隆は家康に父の助命を嘆願し、承諾を得ると、嘉隆へ急使を送った。だが、嘉隆は急使が来る前に、自害してしまう。享年59、戦国の海を駆け抜けた水軍の将の意外な最期であった。

その後も九鬼水軍は健在で、守隆は大坂冬の陣、夏の陣に軍船を率いて参戦し、戦功をあげる。また、江戸幕府の船手衆として、江戸城などの普請にあたり、材木や石材を船で輸送するなど諸役をこなした。

順風満帆に思えた九鬼氏だが、家督継承を巡って、内紛が勃発する。

守隆は、嫡男・良隆と次男・貞隆が病弱で家督の継承がかなわなかったため、僧籍にあった五男の久隆を還俗させ、良隆の養子としたうえで家督を継がせた。

しかし、寛永9年(1632)に守隆が死去すると、守隆の三男・隆季を推す家臣たちが久隆の家督を不服とし、幕府に訴える。

幕府は守隆の遺領5万6000石のうち、3万6000石を久隆に、2万石を隆季に分知し、久隆は摂津国三田、隆季は丹羽国綾部に国替とする裁定を下した。三田も綾部も山間であり、九鬼氏は海を失ったのだ。

この頃、幕府直属の水軍の組織が整いつつあり、九鬼氏の水軍力に頼る必要もなくなっていたとされる。九鬼水軍は、役目を果たし終えたのかもしれない。

それでも、海や船や鳥羽を忘れられなかったのだろう。三田に移った九鬼氏は、湖上に大船を浮かべて夜陰に紛れて船を漕ぎ、往事と鳥羽を懐かしんだという。

 

統一権力の御用船方として活躍・塩飽水軍

瀬戸内海のほぼ中央、岡山県と香川県に挟まれた備讃瀬戸に散在する、本島、牛島、広島、手島(以上、香川県丸亀市)、櫃石島、与島(以上、香川県坂出市)などの島々を、塩飽諸島という。

塩飽諸島の中心である本島は、塩飽水軍の本拠だったとされる。

塩飽は古くから、交易・流通の拠点となる海上交通の要所だった。風待ち、潮待ち、水の補給などで、この地に寄港する船も多かった。

塩飽の人々は卓越した操船技術を誇り、造船技術にも長け、水軍力のみならず水運力にも優れていた。

南北朝時代から海上勢力としての力を発揮しはじめ、周防大内氏の明との貿易では警固を担い、元亀2年(1571)の毛利氏と三好氏との合戦に際しては、三好軍の渡海役を務めている。

天正5年(1577)3月には、当時、大坂本願寺との戦いの最中にあった織田信長から、塩飽船の堺への航海の安全を保証される。

これは、天正4年(1576)の第一次摂津木津川河口の戦いで毛利方の水軍に敗北を喫した信長が、塩飽水軍を取り込んで、織田水軍を立て直すための方策だったのではないかとみられている(山内譲『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』)。信長も、塩飽水軍の力を認めていたのだろう。

天正14年(1586)8月には、豊臣秀吉から九州攻めのために、50人乗りの船を10艘、供出するように命じられる。以後、塩飽衆は統一権力のもとで御用船方として重用された。

4年後の天正18年には、秀吉から1250石の領地が与えられた。この権利はその後、徳川家康にもそのまま承認されることになる。

この所領支配の権利は、塩飽の650人の船方衆に人名株として分け与えられ、子孫に受け継がれていく。

領地を持てた塩飽の船方衆は、大名、小名に対して、自らを「人名」と称したという(よねもとひとし『塩飽の島びとたち』)。

人名領では、島民の中から選ばれた「年寄-年番-庄屋」という組織によって、自治的な統治が行なわれ、大名の支配を受けることはなかった。

このような大きな特権は、塩飽水軍の突出した水運力を、統一権力が御用船方として動員するための代償として許したものだという(山内譲『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』)。

その後も、塩飽水軍は豊臣秀吉の九州攻め、朝鮮出兵などで貢献し、無事に江戸時代を迎えた。操船技術に長けた塩飽水軍は、時代の荒波も巧みに乗り切ったのだ。

プロフィール

鷹橋忍(たかはし・しのぶ)

作家

昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。

歴史街道の詳細情報

関連記事

編集部のおすすめ

小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠~関ヶ原「裏切り者」たちの思惑(1)

鷹橋忍(作家)

吉川広家、朽木元綱、赤座直保~関ヶ原「裏切り者」たちの思惑(2)

鷹橋忍(作家)

太田牛一はメモ魔だった? 『信長記』で真摯に天下人を書き上げた戦国武将

橋場日月(作家)