その後、義広は白川を経て、実家である常陸の佐竹氏のもとに逃れた。この年、佐竹氏の家督は義重から、義広の実兄・佐竹義宣に継承されていた。
佐竹に戻った義広は、伊達政宗による会津の奪取を、大名同士の私戦を禁じる「惣無事令」に違反するとして、豊臣政権に訴えた。
しかし、義広が会津に返り咲くことは叶わなかった。翌天正18年(1590)に小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、「奥州仕置」を行ない、伊達政宗から会津を没収したものの、義広ではなく蒲生氏に与えている。
佐竹氏は、常陸国のほぼ全体と下野国の一部における21万6千758貫分を安堵された。義広は、常陸国内の江戸崎(茨城県稲敷市)に4万8千石の知行が与えられ、江戸崎城主として再出発することとなった。
同年9月26日には江戸崎領に入った義広は、「盛重」と改名した。「盛」は蘆名氏の通字、「重」は、父・佐竹義重から一字を拝領したという。
当主の実弟である義広は、佐竹家中でも高い地位にあった。家臣は100名以上にも増え(林正崇『図説 角館城下町の歴史』)、文禄4年(1595)には、正室・円通院との間に嫡子の盛泰が誕生している。
しかし、江戸崎も義広の安住の地とはならなかった。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの戦後処理により、義広は秋田へと向かうことになる。
佐竹氏は、天下分け目の関ケ原の戦いにおいて、軍事行動を起こしていない。だが、当主の佐竹義宣が石田三成と深い繫がりがあり、西軍寄りの姿勢を示していた。
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長7年(1602)5月、佐竹義宣に常陸54万石の没収と、出羽国秋田への転封を通達した。義広も、江戸崎を取り上げられた。しかも、替わりの所領は与えられなかったため、義広は兄に従い、秋田へ移転するしかなかった。
翌慶長8年(1603)、義広は佐竹義宣より、秋田の自領20万石から角館(仙北市)の1万5千石を与えられた。独立した大名ではなく、佐竹氏の家臣という立場であった。
角館に入封した義広は、心機一転とばかりに「義勝」と名を改める。ときに29歳となっていた。
義広は角館で領地経営に尽力し、善政をしいたとされる。義広の功績で、最も知られるのは、新城下町の建設だ。
義広が入部するまで角館を統治していた戸沢氏は、居館を古城山の山上に建て、北麓に城下町を築いていた。
義広も当初、戸沢氏が残した居城を使っていた。だが、徳川幕府の一国一城令や、十数名が溺死するほどの水害や、大火に見舞われたこともあり、元和6年(1620)、義広は南麓に居館を移し、新しい町づくりをはじめた。
その特色は、武家の居住地「内町」と、町人の居住地「外町」に区分けしたことである。内町と外町は、「火除け」と称する幅約21メートルの空き地で、はっきりと区切られている。火除けの中央には高さ約3メートルの土塁を築き、両わきに下水路を設けた。
義広が築いた角館の町並みは、400年余の月日を経た現在も、ほとんど変わらずに残っている。
義広は寛永8年(1631)6月7日、57歳で没した。その嫡男・蘆名盛泰は、父親に先立って病死していたため、義広の死から約4ケ月後に誕生した盛俊が、次の当主となった。しかし、盛俊も、21歳の若さで病没。盛俊の子の千鶴丸も、4歳で転落死し、ここに蘆名氏は滅亡した。
角館の天寧寺には、義広を含む角館蘆名氏三代と、その正室や側室の墓石が並ぶ墓所がある。
運命に翻弄され、幼い頃から白川氏、蘆名氏と他家を渡り歩き、白川、会津、江戸崎と転々と移り住んだ義広だが、角館は28年と最も長い時を過ごしている。角館は義広の安住の地となれたのだろうか。答えは知るよしもないが、義広は今も愛する家族とともに、角館の地で静かに眠っている。
更新:11月22日 00:05