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東日本の要衝を守る最強の山城「向羽黒山城」は、なぜ会津に築かれたのか

2024年05月15日 公開
2024年05月16日 更新

石田明夫(会津古城研究会会長)

向羽黒山城遠景
写真:向羽黒山城遠景

鎌倉時代から戦国時代末期にかけて、会津は東日本で屈指の都市だった。そしてその地を400年にわたって治めたのが、蘆名氏である。しかも蘆名氏の最盛期を築いた蘆名盛氏は、東日本随一というべき山城・向羽黒山城を残した。蘆名氏とは、いかなる一族だったのか。そして、向羽黒山城はなぜ築かれ、いかにして最強の山城となったのか。会津在住の研究者・石田明夫氏がひも解く。

 

古代から続く会津の地

福島県の会津地方は、今は静かで自然豊かな土地ですが、鎌倉・室町時代から戦国末期にかけては、東日本屈指の都市として栄えた場所でした。これは、会津地方に点在するいくつかの古代遺跡からもわかります。

会津には多くの古墳が存在します。卑弥呼と近い時期の、3世紀末ごろの古墳も多数あり、なかには「舶載鏡」が出土した遺跡もあります。「舶載鏡」とは、弥生・古墳時代に大陸から輸入された鏡で、身分の高い人物の副葬品として使われました。このことからも、会津には勢力の強い豪族がいたこと、東日本において、重要な土地であったことがわかります。

そんな会津を鎌倉時代から治めていたのが、蘆名氏です。蘆名氏は会津の祖ともされる一族であり、この地を東日本における随一の経済都市に育てていった名家でもあるのです。

 

蘆名氏と会津のかかわり

蘆名氏は、もともと源氏に仕える三浦氏の一族から始まっています。奥州の合戦で功績をあげ、源頼朝から会津を与えられました。以後、戦国時代末期の天正17年(1589)までの400年の長きにわたり、蘆名氏の会津支配が続きます。

当初、会津には代官をおき、蘆名氏自身は鎌倉や京都に屋敷を構えていました。政権の中心部にいることで、おくれをとらずにさまざまな情報を入手し、敵対勢力への対抗力や、最先端の技術力をつける意味もあったのでしょう。ちなみに京都では、現在の二条城の南あたりに蘆名氏の屋敷があったようですが、応仁の乱で焼失してしまいます。

会津に拠点を移したのは、7代・蘆名直盛からです。洪水など自然災害の少ない土地だった会津は、米が安定的に収穫でき、また金や銀のとれる採掘場所もあったので、経済的にもめぐまれていました。

たとえば会津に隣接する新潟県などは、洪水のために何年かに一度は不作の時期があり、困窮したようです。経済的に安定し、名門・三浦氏の血統である蘆名氏が領主となったことで、会津はますます発展していきます。

 

向羽黒山城の築城

会津に入った蘆名直盛は、黒川城(現在の会津若松城付近に存在した)を築城、以後、ここが蘆名氏の居館となります。

時を経て、16代・蘆名盛氏のときに、蘆名氏は隆盛を極めます。盛氏は、甲斐の武田氏などと同盟を結んで常陸の佐竹氏に対抗するなど、外交面でも優れた手腕を発揮。また、著名な文人を招き、絵画を学び、茶の湯を行なうなど、文化的側面でも評価が高く、まさに蘆名氏中興の祖ともいうべき人物でした。

その盛氏が手掛けたのが、会津美里町の岩崎山にある向羽黒山城です。盛氏が息子の盛興に家督を譲ってからここに移ったため、「隠居城」ともいわれます。しかし実は、蘆名氏が東日本の各武将に睨みを利かせるための「本城」でした。いわば戦うための城だったのです。

当時の日本は、織田信長が台頭しはじめた戦国時代で、いまだ群雄割拠の真っただ中でした。徳川時代に政治の中心となる江戸は、まだ徳川氏が入る前なので、さびれた湿地帯でしかありません。このとき政権は京都にありますが、東日本の押さえとなるのはどこの国になるのかという疑問が出ます。

それはやはり、会津だったのです。国力もさることながら、新潟や北関東だけでなく東北に睨みを利かせられる地勢にも恵まれた会津は、東日本の要衝でした。そして、そんな会津を守るための戦に備えた向羽黒山城は、必然的に堅固な要塞の意味を持つ城となります。

実は蘆名氏は、安土城に使いを出すほど、織田信長との関係が良好でした。おそらく信長も、東日本の要地を押さえる蘆名氏とは、友好関係を保ちたかったのでしょう。

盛氏が8年の歳月をかけてつくった向羽黒山城を見てみると、岐阜城によく似ています。信長は永禄10年(1567)、岐阜城を手に入れてから、大改修を行ないます。山上には城がありましたが、信長は麓に居館を置き、城下町の整備をしました。

向羽黒山城もその遺構から、同じように麓に城下町をおいた山城だったことがうかがえます。盛氏が向羽黒山城の築城に着手したのは永禄4年(1561)のことですが、すでに石積みが用いられています。

当時の東北では、蘆名氏以外には石垣、石積みをほとんど用いておらず、蘆名氏は城づくりにおいても先進的だったといえるでしょう。こうした向羽黒山城の「戦うための城」としての存在意義は、蘆名氏以後に会津領主となった、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝にも認められ、それぞれが城の改修にかなり力を入れています。

 

伊達、蒲生、上杉氏にとっての向羽黒山城

図:向羽黒山城跡想像図(筆者提供)

山城は敵から攻められたとき、攻撃し、防御する城で、いわばその国の生命線でもあります。
また、デモンストレーションとして、敵が攻める前から戦意をくじくために、相手に見えるところから築かれていきました。

蘆名氏を会津から追った伊達政宗は、他国からの侵入に備え、黒川城よりも先に、向羽黒山城を6ケ月かけて改修しています。

豊臣秀吉の時代になると、奥州仕置きのため政宗が米沢へ移封となり、会津には蒲生氏郷が入りました。背後の伊達氏を牽制するため、蒲生氏郷は向羽黒山城をより強固な山城にすべく改修を始めました。政宗と勢力を接している以上、拠るべき城が重要だったのでしょう。

ついで慶長3年(1598)、上杉氏が会津領主となります。このとき旧領を合わせて120万石となった上杉は、広島の毛利氏と肩を並べるほどの戦国大名となっていました。豊臣秀吉から見れば、西日本を押さえる広島、東日本を押さえる会津であり、その戦略的価値は極めて高かったと言えるでしょう。

そして上杉氏が、それにふさわしい城として、神指城の築城に着手したことはよく知られています。完成していれば会津若松城の2倍の規模を誇る巨城となっていたと考えられます。

しかし、その神指城を築城する前に、やはり上杉氏も、向羽黒山城を改修しているのです。この点において、向羽黒山城はやはり、会津を守るための重要な城だったと言えるでしょう。上杉氏時代の特徴は、堀切と堅堀にあります。これは総構えというべきもので、小田原城や朝鮮出兵の際に築かれた熊川倭城から着想を得て、それを活かして城を改修したのでしょう。


写真:向羽黒山城の堀切


写真:向羽黒山城の竪堀

ともあれ、徳川家康による会津征討は結局、北関東の小山までの出陣にとどまったため、会津は戦場とはなりませんでした。もっとも、仮に攻め込まれたとしても、向羽黒山城はなかなか落とすのが難しい城だったと思われます。

しかし残念ながら、関ケ原の戦い以後、この城は役目を終え、廃城となりました。蘆名氏時代の築城から改修を重ね、最新の土塁や堀切、石積み・石垣などを兼ね備えた向羽黒山城は、まさに東日本における最強の山城といってもいいでしょう。

また、そうした城をつくりあげた蘆名氏を、今一度再評価することは、歴史の新たな側面が見えてきて、それもまた興味深いのではないでしょうか。

 

【石田明夫】
会津古城研究会会長。昭和32年(1957)、会津に生まれる。一般社団法人会津歴史観光ガイド協会理事長、特定非営利活動法人会津阿賀川流域ネットワーク理事長、特定非営利活動法人会津鶴ヶ城を守る会副理事長、日本考古学協会員。専門は、焼物、戦国時代の城館、戊辰戦争の陣地跡を調査研究。

 

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