鹿児島県内には、枚聞神社(開聞神社)や花尾神社や一之宮神社などに使節が奉納した扁額(へんがく)がたくさん残されている。
開聞岳(かいもんだけ)を御神体とする枚聞神社では航海の安全を琉球人が祈願している。花尾神社には天明7年(1787年)の銘を持つ「無斁(むえき)」(いとうなし)の扁額が掲げてある。これは『詩経』からの引用で、2つの意味が考えられる。
1つは「之に服して厭ふなし」という海音寺潮五郎氏の解釈で、婦道を説いたものという。薩摩を主人、琉球を妻にたとえたものである。
2番目の解釈は古代中国の朝廷の宗廟で舞と共に奏でた頌(しょう)の中にある。これも『詩経』からの引用で、頌は諸侯を誉めたたえたものが多い。頌の中に「わが客来りませり。清雅なるそのみ容(すがた)、かなたもわれをにくむなく、われもかなたをいとふなし」とある。
すなわち、薩摩と琉球はお互いを厭うことなく、親しい間柄であると言っているのだ。この深い意味は、相当の学問があり、『詩経』を諳(そら)んじていなければ理解できない。源頼朝と島津氏初代忠久の母丹後局を祀る花尾神社にふさわしい書であった。
奉納したのは、盛島親雲上朝朗・伊集親雲上朝義・富里親雲上朝永の3人であった。薩摩側からの歓待に「無斁」の2文字で答えたのであろう。
近くにある一之宮神社には天明7年「永頼」(ながくたのむ)の扁額がある。庇護をお願いしますという2字には平和外交に徹する使節の姿を見ることができる。今帰仁(なきじん)按司朝賞の書である。
鮮やかな朱塗りの扁額「澤敷海国」(たくをかいこくにしく)は安永2年(1773年)花尾権現宮(花尾神社)に奉納された。恩沢を琉球に施してくださり有難いというお礼を述べたものであろうか。中山王世子尚哲の書である。
右の3例と異なり、天明7年奉納の「蔭長」(かげながし)の2字には、薩摩の庇護が大きいという表の意味と、中国の漢詩では晩秋の9月の夕暮れの景色を描写する表現なので、暗い気持が裏に込められていたのかもしれない。
今帰仁按司朝賞の書である。財政難に苦しむ鹿児島藩の干渉が、天明年間には強くなっていたことの反映とも考えられる。
安永2年読谷山(ゆんたんざ)王子朝恒が花尾権現に奉納した「瞻仰(せんぎょう)」は、天を仰ぎ見るという意味。いくら努力しても日照りや飢饉、疫病が無くならない。
海音寺氏は、「いつの日安寧の日が来るのでしょうか、雨を望んで好天を瞻仰すればキラキラと星が輝く、いつの日悠久の平和が来るのでしょうか?」と解釈している。
文字通りとれば、高い薩摩を我々は仰いでおりますという褒め言葉だが、海音寺氏によれば、『詩経』では、民が生きるか死ぬかの苦しみに遭っているのに、あなたはなにをやってくれるんですかという恨みごとがえんえんと続く、という。
この瞻仰を、単純に琉球が薩摩を高く敬っていると解釈してしまったら、まさに「まなざしのすれ違い」といえるだろう。
更新:11月23日 00:05