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琉球使節の中国装束は誇りの現れ? 世を賑わせた「江戸上り」の実像

2022年06月13日 公開

原口泉(志學館大学教授)

原口泉 琉球使節

沖縄はかつて琉球王国とよばれた独立国家であり、彩り豊かな独自の歴史を紡いできた。

ところが、17世紀初頭には、薩摩の島津氏に侵略され、琉球王国は中国との君臣関係を保ちながらも、薩摩藩と徳川幕府に従属することになる。江戸時代になると、琉球王国の王子(オージ)を正使とする「琉球使節」が、江戸に派遣されるようにもなった。

これまで、この琉球使節について「『見世物』のように江戸の街中を歩かされていた」とする説が唱えられていたが、実際は「琉球王国の誇り」を示した一団であったという説を、志學館大学教授の原口泉氏が紹介する。

これまで語られることのなかった、琉球王国の自国への誇りと、薩摩藩との関係性や秘めたる思いを探る。

※本稿は、原口泉著『日本人として知っておきたい琉球・沖縄史』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

 

しなやかな外交姿勢、誇りを纏った琉球使節

琉球からは、王子(オージ:国王の子、王叔、王弟の称号および位階名)を正使とする琉球使節が、1634年以降計18回江戸に派遣され、「江戸上り」と称せられた。島津氏が先導する、総勢500~600人に及ぶ大行列であった(そのうち琉球使節は100人程度)。

江戸上りには、新将軍を祝う慶賀使と王就任御礼の謝恩使があった。異国の聘礼を受ける徳川将軍の威信は輝き、島津氏の位階も上昇した。

初代藩主島津家久は従三位(じゅさんみ)の高い位に叙せられた。中国装束の江戸上りは江戸・名古屋など各地で評判を呼び、「琉球物」の出版ブームまで起こっている。

江戸上りの一行は鹿児島市花尾町の花尾神社(祭神は源頼朝と島津家初代忠久の母、丹後局)と日光東照宮(祭神は徳川家康)に参拝した。日光東照宮には首里城にあった大花瓶が島津家より献上されていた。

「江戸上りは中国風の装束を強要され、見せ物のように街道を行列させられた」というかつての説を豊見山和行氏は否定する。

豊見山氏によれば、鹿児島藩から強制されるでもなく、薩摩支配以前から琉球士族の正装は中国服だった。

行列は沿道の諸藩や民衆から歓迎され、使節団には中国と正式外交を持っていたことへの誇りがあった。琉球使節はたしかに受身で行っていたことでなく、一国の独立を誇示していたといえよう。使節団の教養の高さに裏付けられている。

日本では士といえば、武士すなわち兵士であるが、日本以外の東アジアでは士・大夫といえば教養人を指している。彼らは漢詩や書道などの中国文化に秀でていた。1710年江戸上り随員の書記官、屋富祖(やふそ)親雲上(おやくもい)仲辰は朝廷や幕府内でも文筆に優れていることから、琉球国の誉れとなっていた。

一行が各地で作った和歌が数多く残っている。さつま町に残る浦添王子朝熹(ちょうき)の書は含蓄に富む。「忍 気に入らぬ風もあらふに柳かな」。鹿児島藩の威風を受け流す気概が表れている。

柳のように折れない、しなやかな外交姿勢である。自らの立場を「忍」と覚悟し、気に入らない風に抗わない柳に心情を託している。これが浦添王子の作であれば角が立つが、有名な福岡の仙厓(せんがい)禅僧からの借用であった。

使節団は鹿児島城下の琉球館に3ヶ月から半年滞在し、江戸への旅立ちの準備をしていた。江戸への道中では路次楽(琉球の中国伝来の宮廷音楽、行進しながら吹奏する)を演奏し、江戸城では楽童子という美形の少年たちが踊りを舞い、座楽(室内楽)が演奏された。使節のお召し換えの屋敷が桜田藩邸で、「装束屋敷」と呼ばれていた。

江戸上りの琉球使節は感染症を運んだこともあるようだ。江戸っ子が詠んだ狂歌に「琉球から風をくるま(車)に積んできて引く人もありおす(押す)人もあり」というものがあるのだが、この「風」は「風邪」を指している可能性があるという。

鹿児島城下にはかつて光明寺(琉球寺)という寺があり、天保3年の謝恩正使豊見城(とみぐすく)王子朝春の墓が置かれていた。この朝春が、インフルエンザにかかってていたのではないかと見る人もいる。このときは急なことで正使に別人がなりすましている。

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