これまで歴史に埋もれていた人物や出来事に光を当て、感動的な物語を執筆されてきた植松三十里さん。その新作『万事オーライ』は、別府温泉を日本有数の観光地へと変貌させた立役者である油屋熊八が主人公だ。この破天荒な人物の魅力、そして別府温泉の魅力もふんだんに盛り込まれた本書について、話を伺った。(取材・文:末國善己)
※本稿は、『文蔵2021・9』より一部抜粋・編集したものです。
植松三十里 小説家
静岡市出身。東京女子大学史学科卒業後、婦人画報社勤務、7年間の在米生活、建築都市デザイン事務所勤務、フリーランスのライターなどを経て作家に。2003年『桑港にて』で歴史文学賞受賞。09年『群青 日本海軍の礎を築いた男』で新田次郎文学賞、『彫残二人』(文庫化時に「命の版木」へ改題)で中山義秀文学賞を受賞。主な著書に、『調印の階段』『大正の后』『帝国ホテル建築物語』『梅と水仙』などがある。
――新作の主人公は、温泉で有名な大分県別府市を一大観光地にした油屋熊八ですが、なぜ熊八を選んだのでしょうか。
【植松】以前、日本政府の全権として降伏文書に署名し、戦後は外務大臣として活躍した重光葵を主人公にした『調印の階段』を書いた時、テロで片足を切断した重光が別府温泉に滞在したと知って取材に行きました。そこで油屋熊八という面白い人物がいると知り、いつかは小説にしたいと考えていました。
――植松さんは、『愛加那と西郷』の西郷隆盛、『慶喜の本心 徳川最後の将軍』の徳川慶喜などの有名な人物も、『燃えたぎる石』の片寄平蔵、『大和維新』の今村勤三のようにあまり知られていない人物もお書きになっています。熊八は、別府では有名ですが全国的な知名度はありません。小説で取り上げる人物を選ぶ基準は、何かあるのでしょうか。
【植松】基本的には歴史的に無名な人を書くのが好きです。歴史に埋もれてしまったけれど、こんなに面白い人がいると、読者に知ってもらいたいので。有名人は偉人として立派すぎたり、誤解されていると感じた場合に、小説にしたいと感じます。実はこんな人物だったと知ってもらいたいので、私の中で両者に違いはありません。
熊八は、アイディアマンで多くの事業を成功させたと別府では学校で教えているほどです。地元の人は熊八が大好きなので苦労話を書きたくないようですが、成功した人には、必ず失敗し、歯を食いしばって耐えた時期があるものです。
熊八も史料を読んでいくと、どん底まで落ち、手を差し伸べてくれた人たちに助けられて成功した姿が見えてきました。最初から偉大な人だったのではなく、失敗を繰り返しながら成功した等身大の人物として描くと、共感を得られて知名度が全国区に広がるのではと考えました。
――この作品の取材で、改めて別府を訪問されたようですが、別府の魅力を教えてください。
【植松】これまで温泉地といえば、渓谷の両側に温泉宿が並んでいるイメージがありましたが、別府の市街地はおおむね平坦で、住宅街の中に温泉宿が分散して建っています。宿泊したのが古い宿で、食事がついていなかったので外食に出たら、飲食店街もあれば、大人が楽しめる歓楽街もある。
昔から別府は素泊まりで浴場がない宿が多く、温泉も宿泊客は外の共同の浴場を使うことが多かったようです。今でも、飲食店で使えるチケットを発行して、宿泊客に外食をしてもらうスタイルのホテルも新たに生まれていて、伝統を守っている別府ならではの面白さがありました。
――熊八は、作中では渋沢栄一に海外留学の重要性を説かれたこともあって渡米します。大学進学はできませんでしたが、働きながら各地を回り見聞を深めました。この経験は、やはり熊八にとって大きかったのでしょうか。
【植松】私は結婚して7年ほどアメリカに滞在しました。私もカルチャーショックを受けましたから、現在よりアメリカとの技術の差、文化の差が大きかった時代にアメリカに渡った熊八の衝撃は計り知れないものがあります。
熊八がアメリカに行ったのは、ハワイが合衆国に併呑されワイキキビーチが観光地になっていた時代です。そこから影響を受けたとする史料はないのですが、リゾートホテルを建てて世界中から観光客を呼び込むというハワイの戦略を知らなかったとは考えられません。
熊八は、スウェーデンの皇太子夫妻、寄港したイギリスの軍人などを自分のホテルに宿泊させたり、朝鮮半島や台湾からも客を呼んだりしていますが、インバウンド(訪日外国人旅行)に力を入れたのは、渡米体験の影響が少なくなかったはずです。
――熊八は株で財産を失っては借金をして事業を再開し、別府で観光業を軌道に乗せてからも借金をして新規のアイディアを実現させようとするなど、豪放磊落な人物ですね。
【植松】お金をいつも借りていると、麻痺してくることがあるといいます。熊八もそれに近く、新しい事業を興すたびに多額の借金をしていたのですが、別府に尽くしてお金を残さずに亡くなったことも、熊八が愛される理由になっているようです。
――熊八は、観光資源の発掘として地獄めぐりを考案し、地獄の一つとして温泉を利用したワニ園を作ったり、リピートを期待して別府のロゴ入り手拭いを配ったり、思い出になる集合写真を撮影したり、観光バスを仕立ててバスガイドを置いたりなど、次々とアイディアを出していきます。ただ本書では、これらは熊八ひとりの功績ではなく、才能ある人を見つけてきて一緒に別府を盛り上げたとしていましたね。
【植松】地元では、熊八がすべてのアイディアを出したとされがちです。おとぎ話や紙芝居で子供を楽しませる団体旅行の「お伽倶楽部」も熊八の功績とされていますが、実際は童謡「夕やけ小やけ」を作詞した久留島武彦たちがメインで、熊八は協力しただけです。
ひとつの町を有名な観光地にする大事業は一人ではできませんから、本作では熊八に見いだされたり、協力したりした人たちもクローズアップしました。
――妻のユキの存在も大きかったのでしょうか。
【植松】熊八の妻のことは、ユキという名が伝わっているくらいで、年齢も分かっていませんでした。ただユキの父は、明治維新後は大蔵卿などを歴任した宇和島藩主・伊達宗城の側用人でしたから、ユキ自身も政治や経済の動きも分かり、武家の娘なのでいざという時の腹のくくり方も凄かったはずです。なので、熊八は公私にわたって影響を受けていたと思います。
――大分県で行われた軍事演習の視察に来たヨーロッパ諸国の武官を宿泊させるため、熊八が西洋式ホテルを再開させるところは、植松さんのご著書『帝国ホテル建築物語』を思わせるものがありました。
【植松】当時の日本人には馴染みのない西洋式のホテルですから、同じような苦労はあったと思います。演習の視察に来た外国の軍人のため、熊八が閉まっていた別府ホテルを再開したのは史実です。
そうなると西洋料理が作れる料理人が必要になりますが、誰が起用されたか不明でした。地元新聞での連載を終えた後、別府名物の「とり天」を作った宮本四郎が料理人になったことが分かり、単行本で加筆しました。
更新:11月22日 00:05