これまで、神武天皇が南部九州からヤマトに東遷(あるいは東征)したという話は、デタラメと考えられていた。天皇家の歴史をなるべく古く、なるべく遠くに見せかけるために選ばれたのが、南部九州だったというのだ。
しかし、笠狭碕は僻地ではないし、海人の拠点で、南西諸島と日本海、あるいは太平洋をつなぐジャンクションだった。そこに逃れた王家の祖が、やがて、満を持して東に移動したということになる。
問題は、敗れて零落した日本海の貴種(くどいようだが、ヤマトの王家の祖)が、なぜヤマトの王に君臨できたのか、ということだ。『日本書紀』や『古事記』の示すような「東征」は、史実だったのだろうか。
通説は、初代神武天皇と第十代崇神(すじん)天皇は同一人物で、崇神天皇こそ実在の初代王とみなしている。
筆者は、初代と第十代は同一人物ではなく、同時代人であり、別人と考える。
その理由は、まず、崇神天皇の母と祖母が物部系だったことだ。おそらくこの人物の正体は、神武東遷以前からヤマトに乗り込んだニギハヤヒだろう。ヤマト建国後の主導権争いは吉備=瀬戸内海のニギハヤヒが中心となって、日本海勢力を裏切り、倒し、恨まれ、祟られたのだろう。
その崇神天皇は、祟る神を恐れ、神の子を都に呼び寄せたと『日本書紀』は記録している。その神とは出雲の大物主神(おおものぬしのかみ)で、この神の子に祀らせたとある。
人口が半減するほどの祟り(疫病)で、崇神(ニギハヤヒ)は困り果ててしまった。この祟る日本海勢力の大物主神の子こそ、神武天皇だったのではあるまいか。
つまり、神武以来のヤマトの王は、ヤマトに裏切られ敗れ、日向に逃れて零落し、ヤマトを呪った者たちの末裔だったと考えればよかったのだ。
だからこそ、ヤマトで王に担ぎ上げられたあとも、実権は渡されなかった。権力を握っていたのは物部氏ら、神武東征以前にヤマト政権を形成していた首長(豪族)たちである。神武天皇やその末裔たちは、しばらく祭司王の地位に甘んじていたのだろう。
このように、ヤマト建国は複雑な過程を経て成し遂げられ、前方後円墳体制(古墳時代)に移行していったのだ。そして「流通」「水運」をめぐる主導権争いが勃発し、のちに両者は和解した。海人が再び歴史の主役に躍り出た瞬間でもある。
そして、ヤマト建国後も日本列島内、朝鮮半島、中国との間の交易を差配していたのは、縄文時代から大海原を駆け巡っていた海人たちであった。
日本の歴史は、海人が築き上げたといっても過言ではないのである。
更新:12月18日 00:05