※本稿は、関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
日本人は縄文時代に関して無関心だったが、三内丸山遺跡の発見によって、マスコミがまず飛びつき、縄文人に対する認識は、確実に変わったのだ。そこで、少し三内丸山遺跡について、考えておきたい。
平成4年(1992)に、県総合運動公園拡張事業の野球場建設にともない、発掘調査は始まった。江戸時代前半から、「ここには何かある」と、気付かれてはいた。一帯から土器や人形(土偶)が出てくると17世紀には記録され、18世紀末には、土器や土偶のスケッチが描かれていた。
実際にトレンチを入れてみると、厚さ2メートル以上の遺物包含層が出現した。遺物包含層に厚さがあり、遺跡が長く続いていたことになる。発掘の結果、今から5500年から4000年前に至る1500年の間、人が住み続けていたこともわかってきた。
平成6年(1994)に、4500年前の縄文時代中期後半の直径1メートルのクリの巨木を用いた大型掘立柱建物跡が発見され、ついに保存運動が巻き起こり、見事な遺跡公園が整備された。
岡田康博(三内丸山遺跡の調査責任者)は、三内丸山遺跡の特徴を3つのキーワードを用いて表現する(NHK三内丸山プロジェクト・岡田康博『縄文文化を掘る』NHKライブラリー)。
(1)大きい
遺跡の推定範囲は、約35ヘクタールで、東京ドーム7個分、最大級の縄文遺跡だ。しかも、計画的に住居、墓、倉庫、ゴミ捨て場が配置されていた。
(2)長い
土器の編年から、縄文時代前期から中期にかけての約1500年間、遺跡が継続していたことがわかった。
(3)多い
出土遺物の量が、膨大だった。縄文遺跡の宝庫・青森県全体の40年分の遺物が、一つの遺跡から出現した。
三内丸山遺跡の発見によって、かつての常識は覆された……。ただし、「それ以前からわかっていたことを、再確認しただけだ」と、指摘する考古学者も多い。一般の人が知らなかった縄文の実力を、三内丸山遺跡の発見に驚いたマスコミが、大きく報道して世に知らしめたのが、本当のところなのだ(もちろん新発見もあったが)。
ならば、縄文人の野蛮人のイメージを払拭するだけの材料とは、どのようなものだったのか。
更新:12月12日 00:05