信長が恐れた武将に、武田信玄とともに上杉謙信がいる。信長は信玄を牽制してほしくて、永禄7年(1564)頃から謙信の御機嫌を取るため、狩野永徳の筆による「洛中洛外図屛風」や織田家の紋が入った甲冑などを贈った。謙信も大鷹を返礼の品にするなどして、良好な関係を結ぶ。
ところが天正3年に信長が越前の一向一揆を制圧し、加賀を狙いはじめてから関係がギクシャクしだす。信玄の支援のもと加賀を押さえていた一向一揆衆が、信玄の死によって謙信と同盟を結ぶと、謙信は能登・加賀への進出を開始し、天下を狙う信長と自ずと衝突することになったのだ。
上杉氏は能登七尾城(石川県七尾市)の畠山氏と一貫して同盟関係にあったが、幼い城主の病死で内紛が勃発。主導権を握った長綱連が信長と結ぼうとした。
これを知った謙信の襲来が分かると、綱連は弟連龍を脱出させる。乞食に変装した連龍は、安土城に救援を求めた。
天正5年(1577)8月、信長はためらった末、謙信との対決を決意する。しかし、信長自身は出陣せず、柴田勝家を総大将に羽柴秀吉、滝川一益、佐々成政ら13将が率いる4万8000の軍勢を派遣した。
だが織田軍が着く前に、謙信は七尾城を落とした。「霜は軍営に満ちて秋気清し…」という詩は、この時に謙信が詠んだものである。
一方、加賀を2つに分かつ手取川を渡河した織田軍は、七尾城の陥落を知ると同時に、謙信軍の北加賀への南下を知る。信長はここに撤退を命じた。
上杉側史料によれば、かくて9月23日夜、手取川の別流・今湊川(現在はない)が増水し、渡河に難儀する信長軍へ謙信勢が襲い掛かり、1000人を討ち取ったという。さらに渡る予定の瀬が埋没し、川に追い詰められたために、織田軍の人馬は早い流れに押し流され、多数が溺死した。
織田軍は大敗、信長が軍中にいると信じていた謙信は、「信長はもっとやるかと思ったが、案外手弱かった」(『歴代古案』)と評している。
信長は謙信との再対決を覚悟していたが、翌六年(1578)3月13日、謙信は春日山城で急死した。信長が恐れた強敵は、はからずも信玄に続き謙信までも逝った。信長にとって、まさに天運といえよう。
毛利氏との緒戦における上月城の戦いは、信長にとって情勢判断の誤りがもたらした痛恨の敗北だったといえよう。
ただ信長はこの戦いに出馬しておらず、中国方面軍司令官の羽柴秀吉に現地は任せ、本人は安土城・京都から様々な指令を出していた。
秀吉は天正5年10月、姫路城を本拠として、播磨の諸豪族を味方につけた。そこで毛利攻略の出撃基地にしようと、播磨の西端、備前・美作と国境を接し、主要街道が交差する上月城(兵庫県佐用町)を攻める。12月には、城主・赤松政範を自害に追い込んで攻略した。
だが秀吉が撤退すると、当時は毛利に属し、赤松氏と姻戚関係にあった宇喜多直家が城を奪い返した。秀吉は直ぐに奪還戦に出て、降伏してきた城兵を磔にし、女子供さえも串刺しにするなど皆殺しにした。
この時、信長は頼ってきた山中鹿介の尼子氏再興への執念を買い、毛利攻略に利用しようと、その主・尼子勝久とともに上月城を守らせた。
ところが、播磨の東端の山陽道入口にある三木城の別所長治は信長方になっていたが、思わぬ事態が起こってしまう。
一説によれば、実権を握る長治の叔父・吉親が出迎えた際、秀吉があまりに横柄だったのに怒り、軍議で毛利支持に鞍替えさせたという。そして天正6年4月、秀吉軍が襲来すると、吉親は陣地を夜襲し、秀吉は敗れて姫路まで撤退した。
時を同じくして、尼子の復興を許せぬ毛利氏は、わずか数百人の上月城を3万の大軍で囲む。秀吉も1万の兵で駆け付けるが、毛利の大軍になすすべがなかった。
そこで秀吉は6月、上京して信長に援軍を乞う。だが逆に、非情にも上月城を見捨てて、京畿に近い三木城攻めに集中するように、信長から命じられた。
秀吉は抵抗したが信長の命令は絶対であり、やむなく三木城攻めに専念し、見捨てられた勝久ら尼子一党は上月城に死んだ。尼子再興を諦めない鹿介だけは、毛利の捕虜となってなお生きようとするが、毛利に謀殺された。
信長にとっても、また秀吉にとっても後悔が残る敗戦であった。
更新:11月22日 00:05