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「闘将」山口多聞はいかにして生まれたか

2020年12月15日 公開
2023年02月22日 更新

戸高一成(呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長)

 

第一次世界大戦の過酷な現場を体験していた多聞

戦時において日本海軍が「戦う組織」になりきれず、ひたすら「情」と「年功序列」を重んじる役所になってしまったのは、日清、日露戦争以来、実戦を経験していなかったことが大きい。特に、第一次世界大戦では、あまり実戦を経験していなかったため、近代戦の実相をほとんど知らずにいたことは致命的であった。

大正3年(1914)、のちに第一次世界大戦と呼ばれる欧州大戦が始まった。これより戦争は、国家の経済と国民を総動員する「総力戦」の様相を呈し、従来の常識をはるかに超える物的・人的被害をもたらした。それは同時に、当時の日本の工業力では、近代戦を戦うだけの「物量」が維持できないことを意味していた。

だが私はそれだけでなく、第一次世界大戦は、日本人の「精神」面からいっても、すでに近代戦を戦えないことを示した戦争だったという思いがある。

イギリスのチャーチル(当時海相)は、ヨーロッパ戦線の悲惨な状況を「すでに騎士道精神は失われ、単なる殺りくの場と化した」と評した。第一次世界大戦以降、日本的組織が好む「情」という要素が戦争に入り込む隙はまったくなくなってしまった。 

26歳の時、多聞はその苛酷な近代戦の渦中にいた。ドイツ軍のUボートによる無差別攻撃に手を焼いたイギリスは、日英同盟の誼(よしみ)で日本に船団護衛を依頼してきたのである。

それを受けて巡洋艦「明石」を旗艦とする第二特務艦隊が地中海に派遣されることになり、多聞は第二十四駆逐隊の「樫」航海長に任命された。第二特務艦隊は護送任務の期間中、計36回の戦闘を体験し、このうち11回は近距離からの攻撃を受けている。中でも、駆逐艦「榊」はUボートの攻撃を艦首に受け大破、艦長以下59名が戦死、19名が負傷するという大きな被害を受けた。

ちなみに、多聞が航海長を務めた駆逐艦「樫」と僚艦「桃」は、イギリス国王から感謝状を授与されるほどの活躍を残した。イギリス商船がUボートの攻撃により大破したとき、「樫」と「桃」は危険を顧みず、乗員の救出にあたったのである。

このとき、多聞がヨーロッパ戦線で、間接的とはいえ、シビアな近代戦の現場を体験していたことは、彼の戦いに臨む覚悟を固めるうえで大きな意味があったと思える。その苛酷な現実を知った上での「見敵必戦」だったのである。

 

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