明治25年(1892)8月17日、山口多聞が生まれました。昭和の日本海軍きっての闘将で、ミッドウェー海戦で敵に一矢報いた孤軍奮闘で知られます。今回は多聞の印象に残る言葉を中心にご紹介してみます。
多聞は明治25年、元松江藩士・山口宗義の三男として東京に生まれました。 名前の多聞は、楠木正成の幼名・多聞丸にあやかったもので、立派な武士の心を持った人間になるようにとの、父親の思いが込められていました。多聞が13歳の時に、日本海海戦で連合艦隊がバルチック艦隊に勝利します。この日本海海戦の勝利が、多聞を海軍軍人の道に進ませました。
明治42年(1909)、海軍兵学校に入学(40期)。同期には大西瀧治郎がおり、「喧嘩瀧兵衛」こと大西と、「多聞丸」こと多聞は、兵学校の中でも暴れ者の双璧だったといいます。兵学校卒業後、海軍中尉時代の大正7年(1918)、第二特務艦隊の駆逐艦樫航海長として、第一次大戦下の地中海に派遣され、イギリス海軍と協力してドイツのUボートから輸送船団を護衛、実戦を経験します。 その後、アメリカに駐在し、そこで山本五十六と知遇を得ました。生来の旺盛な闘志と合理的思考は、こうした経験を積む中で磨かれていったものでしょう。多聞の「備忘録」と記された大正13から14年の手帳が現存しますが、そこには第一次大戦の分析、航空機や水雷の戦術研究が詳細に記されており、熱心な研究姿勢が窺えます。
昭和12年(1937)、多聞は45歳で戦艦伊勢の艦長を務めますが、着任の訓示は次のようなものでした。
「着任に際し、希望を二つ述べておく。その一つは人の和である。協力一致して愉快に、しかも元気で『伊勢』の戦闘力発揮のために頑張ってもらいたい。 その二は、闘志旺盛でなければならぬ。戦闘に直面して最も肝要なことは、この旺盛なる闘志である。最後まで頑張る者が初めて栄冠を得ることができる。 精神をしっかり持つためには、何といっても健康である。健康なる精神は健全なる身体に宿るのである。この一ヵ年、朗らかに愉快に勤務せんことを望む」
多聞らしい言葉ですが、簡潔明瞭な訓示に乗組員たちは「この艦長だったら一緒に死んでもよい」と思ったといいます。
また多聞はネルソンの言葉を好み、たびたび話に引用しました。それは「旗艦が見えず、戦闘の処置に困った時には、敵艦に横付けして死闘せよ。それが私の意図に合致する」というものです。これは、多聞が部下に常々語ったという、次の言葉とも通じます。
「甲乙決めがたい時は、自分は、より危険性があっても積極性をとる」
「死ぬか生きるかの瀬戸際に立って、判断に迷う場合、他のことは一切考えず真っ直ぐ死に突き進むことだ」
ミッドウェー海戦における多聞の決断は、まさにこの言葉通りであったと感じられます。「真っ直ぐに死に突き進む」という言葉だけを見ると、自殺行為のように取れますが、真意は全く違うでしょう。 「逃げて安易な生を求めるのではなく、死ぬ覚悟で戦いに臨め。そうすれば死中に活を見出せる」という、戦いの覚悟を示していると受け取れます。
もちろん多聞は部下の命を軽く考えてはいませんでした。ある宴席の無礼講で、一人の青年士官が多聞に言います。「司令官、我々は将棋の駒でいえば歩の駒であります。惜しみなく、どしどし潰してください」。すると多聞は、「いや、違う。将棋でいえば、君たちは香車だ。まっしぐらに敵の喉を突き刺す、大切な駒だ。やたらには使えんよ」と応えました。戦いに臨み、死を恐れぬ覚悟を培って、部下たちの出所進退の迷いを取り除くとともに、しかし決して部下たちを「無駄死に」はさせまいとする。それが多聞の本心ではなかったかと感じます。
ミッドウェー海戦で、空母飛龍最後の奮戦において、疲れていることを承知の上で攻撃隊の部下たちを送り出さねばならなかった時、多聞もつらかったはずです。 そして送り出す時に、こう声をかけています。「必ず敵空母をやっつけてこい。司令官も、後から行くぞ」。その言葉通り、多聞は空母飛龍が被弾炎上すると、艦と運命をともにしました。部下たちを裏切らず、自らの言葉に最後まで責任を持った武人の姿が、そこには見出せるのではないでしょうか。
更新:11月23日 00:05