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大敗、内乱、蒙古襲来…古代・中世の日本は「未曽有の危機」にどう立ち向かってきたのか

2020年07月29日 公開
2023年01月05日 更新

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

蒙古襲来
 

蒙古襲来、戦乱の頻発…

日本は島国なので外敵をさほど心配する必要はなく、為政者の目はもっぱら国内に向いていました。ところが鎌倉時代、元軍が攻め込んできます。元の皇帝フビライは何度も国交を求める使者を日本へ送ったのに、幕府や朝廷が黙殺したからです。

驚くべきことに日本の為政者は、海を隔てた元について知識がありませんでした。島国ゆえの海外への無関心さが災いしたのです。もし元の強大さを認識していれば、対応は違ったはずです。

フビライは二度にわたり大軍を派遣。幸い台風の直撃もあって元軍は壊滅しましたが、これを機に幕府は衰退していきます。

外国との戦いなので、御家人は十分な恩賞(土地)をもらえず、戦費や警備費は自己負担だったので貧窮化しました。なのに、執権北条氏が一族の多くを重職につけて権力を独占。このため御家人の忠誠心が薄れ、結果として幕府の瓦解につながるのです。

一方、元寇を機に、日本人に新たな危機反応が生まれました。朝廷は大寺社に怨敵退散を祈願させましたが、人びとは、「それが功を奏して神風が吹き、元軍が撃退された」と信じたのです。

以後、「神国日本は神々の加護を受けているから、大きな危機が起こると、必ず神が助けてくれる」という神風思想が形成されました。

室町幕府は、全国政権としてあまり機能しませんでした。当初から内乱(南北朝時代)が続き、三代将軍・義満の時代に安定したのもつかの間、くじ引きで選ばれた六代将軍・義教が独裁を憎まれて殺されると、実権が有力な守護大名に移り、応仁の乱(1467〜77年)以後は戦国時代に突入してしまいます。

このように室町・戦国時代は、不安定で戦乱が頻発する、いわば危機が常態化した時期だったといえます。

この間、百姓たちは、近隣どうしで惣村 (自治的村落)をつくって領主や武士の横暴から身を守り、時には集団で抵抗しました。

宗教勢力も台頭します。法華宗を信仰する町衆は、応仁の乱で荒廃した京都を復興して自治をおこない、比叡山や高野山などの大寺院は、多くの僧兵を抱えて戦国大名に匹敵する武力を持ちました。

一向門徒たちは、寺内町と呼ばれる要塞都市をつくり上げ、時には総力を結集して(一揆を結んで)大名と互角にわたりあい、仏のもとでの平等な世を目指しました。

堺の豪商も濠をめぐらせ、傭兵を雇って町の安全を確保しました。同じく博多や平野など、商人の自治で成り立つ自由都市があちこちに勃興します。

このように人びとは、強力な中央政権がなくても、自分たちの力で危機を回避する新しい仕組みを手に入れたのです。

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