2018年02月14日 公開
2022年06月21日 更新
平将門首塚(東京都千代田区)
天慶3年2月14日(940年3月25日)、平将門が討死しました。承平天慶の乱と呼ばれる関東の争乱の中心人物です。
平将門は平氏の姓を授けられた高望王の三男・平良将の息子で、平小次郎将門と名乗っていました。将門の父・良将は二人の兄とともに関東を拠点とし、良将は下総国豊田郡を本拠に、兄たちを飛び越えて朝廷から鎮守府将軍に任ぜられた器量人でした。将門も下総で育ちますが、若い頃に京に上り、藤原北家の藤原忠平に仕え、都の治安を守る検非違使などを務めました。将門は検非違使の長官になることを望んだようですが、官位が低かったために叶わず、12年ほど都で暮らした後、関東に戻ります。
ところが関東では、他界した父・良将の遺領を伯父(良将の長兄)の平国香らが横領しており、将門は伯父とその支援者の源護と戦い、国香を討ちました。この事態に伯父良兼(良将の次兄)が国香の息子・貞盛と連合して将門を攻めますが、逆に朝廷から良兼らの追討命令を受けた将門がこれを破り、将門の勇名は坂東一円に知れわたります。
将門の声望が高まると、さまざまな者が庇護を求めてきました。上司と反目して将門を頼った武蔵権守・興世王や、常陸国府のお尋ね者となっていた藤原玄明らもそうです。常陸国府は玄明の引渡しを将門に求めますが、将門がかばったため戦いとなり、将門はやむなく国府軍を破り、常陸介は降伏します。しかし将門は朝廷に叛旗を翻すかたちとなりました。
その後、将門は常陸、上野、下野、上総、安房、武蔵、相模などを手中にし、朝廷から独立した「新皇」を自称するようになります。これに対し、朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任じて東下させ、国香の子・貞盛と藤原秀郷(通称俵藤太)に攻撃させました。数で勝る朝廷軍に将門方は苦戦し、諸方を転戦した末、天慶3年2月14日、下総国幸島郡で決戦となります。
強風のこの日、風を背にした将門軍は朝廷軍に大打撃を与え、最後の総攻撃に移ろうとした時、急に風向きが変わり、風にあおられた将門は矢を眉間に受けて討ち取られました。その首は京都で晒されますが、体を求めて関東へと飛び帰り、落ちた場所が東京都千代田区大手町の「将門の首塚」であるといわれます。
更新:11月22日 00:05