天慶5年6月20日(941年7月21日)、瀬戸内海で朝廷に反乱を起こした藤原純友が没したといわれます。同時期に平将門が関東で反乱を起こしたのと合わせて、承平天慶の乱として知られます。
こんな伝説があります。将門と純友の二人がまだ朝廷の一官吏に過ぎなかった若い頃、比叡山に上って平安京を見下ろしながら、いずれともに乱を起こして都を奪い、桓武平氏の流れの将門は即位して天皇となり、藤原氏の純友は関白になる約束をした、というのです。比叡山には「将門岩」と呼ばれる岩も存在しますが、もちろん伝説に過ぎません。しかし、そうした話がまことしやかに語られるほど、同時期に関東と瀬戸内で起きた反乱は朝廷を震え上がらせ、将門と純友の共同謀議を多くの公家たちが信じました。
藤原純友は寛平5年(893)頃の生まれといわれます。藤原北家の流れを継ぐ中級貴族でしたが、父の藤原良範を早くに失くしたため、中央での出世を諦めて、地方官である伊予掾(いよのじょう)となります。当初は瀬戸内海で強奪を働く海賊鎮圧の職務を忠実に果たしていた純友でしたが、やがて瀬戸内海沿岸の海賊や地方官を支配下におくと、承平6年(936)頃には伊予国日振島を根拠に海賊行為を指揮するようになりました。時あたかも前年、関東で平将門が反乱を起こしています。 純友が率いた海賊は、彼が鎮圧した海賊だけではなく、その大半は武芸に通じた官人層で、中央の貴族社会から脱落し、朝廷のあり方に不満を抱いていた者たちであったといわれます。
天慶2年(939)、純友は配下に命じて備前介藤原子高、播磨介島田惟幹を襲って捕らえます。翌年2月には関東で将門が討たれますが、純友は淡路国、讃岐国の国府を襲い、さらに同年10月にはついに太宰府の兵を破って政庁を襲い、略奪しました。平将門討伐に追われていた朝廷は、とりあえず純友に従五位下を与えて懐柔策をとる一方、小野好古を山陽道追捕使長官、源経基を次官、大蔵春実を主典に任じ、討伐の準備を進めます。ちなみに小野好古はかの小野篁の孫で、三蹟の小野道風は弟にあたります。
海賊勢力と地方官を統率した純友の反乱勢力は強く、約2年もの長きにわたって日振島を拠点に、瀬戸内海を制圧し続けました。しかし天慶4年(941)2月、朝廷軍は純友の本拠日振島を攻め、これを破ります。純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領、純友の弟の藤原純乗は柳川に侵攻しますが、大宰権帥の橘公頼の軍に敗れました。
そして5月、小野好古率いる討伐軍が九州に到着。好古は陸路から、大蔵春実は海路から攻撃しました。純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎撃しますが、激戦の末に大敗、800余艘が討伐軍に奪われたといいます。純友は小舟に乗って伊予に逃れますが、同年6月、純友は潜伏しているところを捕らえられ、獄中で没しました。
純友も将門も、その反乱の動機は野心よりも中央に対する不満、反発でした。平清盛の登場以前に、貴族政治のかげりがすでに表われていたことがわかります。また興味深いのは、この承平天慶の乱の鎮定に功績のあった者の子孫が、正統な武士として認められるようになったこと、また敗れたとはいえ公家政治に挑んだ将門は関東武士から敬愛の念を抱かれ続けることです。関東に武士の府を開く源頼朝、瀬戸内海を制して力を蓄えた平清盛、彼らに承平天慶の乱はなにがしかの影響を与えたことも想像したくなります。
更新:11月23日 00:05