一族の内紛から国府を巻き込む争乱となり、平将門は朝廷に弓引く叛乱者として征伐された。
人々は獄門にかけられた将門の怨念を怖れて霊を祀るようになり、そこから数々の将門伝説が生まれていった。そして、将門は神や英雄として信奉されていく。
千年の時を経て、将門はいかにして畏敬される存在となったのか。
将門の乱が平定されて10年余の月日が流れた天暦5年(951)のこと。出羽国田河郡で龍華寺の僧妙達は、入寂後7日7夜を経て蘇生し、次のように語ったといいます。
「下総国に住む平将門は城東の悪人の王であるが、それは日本国中の悪王を支配・管理するためであった。冥界では先世の功徳によって『天王』となっていた」
叛乱者とされた将門は、あの世では「天王」となっていたという驚きの伝説です。一方で、叛乱平定の調伏を行なった比叡山延暦寺の天台座主である尊意は、将門を殺した罪で長い間人身になりえず、将門と1日に10度も戦わされる安らぎのない境遇に置かれたそうです。
この冥界伝説は「僧妙達蘇生注記」という書物に記されたもので、当時の東国における将門の見方が現われているといえるでしょう。都では大悪人と見られていた将門は、東国では好意的に見られていたことが窺えます。
やがて時代を経るごとに、将門像は変容を遂げます。都で怖れられた怨霊から、社寺で祀られる神となり、江戸時代には歌舞伎や読み物で庶民にも親しまれるようになりました。
叛乱者は、いかにして神や庶民のヒーローとなったのでしょうか。伝説の誕生を追い、将門像の変遷を辿ってみましょう。
まず、将門伝説で早く誕生したとみられるのは、藤原純友と東西から都を挟撃しようとした共謀伝説です。これは当時の都の貴族の間で噂になっていたといいます。
そもそも将門はなぜ朝廷に対して兵を挙げたのか。最初は単なる一族の内紛に過ぎませんでした。将門が伯父たちの領地争いと関わったことからか争いとなり、それがやがて国府を巻き込む戦いに発展しました。そしてさらに、国府からの追捕を逃れて頼ってきた人物を匿ったために、将門は「叛乱者」というレッテルを貼られてしまうことになったのです。
図らずも朝廷に叛旗を翻すことになった将門は、桓武天皇の5代の孫にあたることから、側近の勧めで「新皇」を名乗り、東国支配を目指しました。
天慶3年(940)、朝廷はこの脅威に対して社寺に調伏を行なわせ、下野国の藤原秀郷や将門の従兄弟の貞盛に征伐を命じました。将門は寡兵ながらも決戦におよび、戦いを有利に進めましたが、急に風向きが変わり、流れ矢に射抜かれて絶命してしまいます。そして、その首は京に晒されることとなりました。
記録に残る限り、日本史上で獄門にかけられたのはこの時が最初であり、朝廷がいかに将門の存在を怖れていたかが窺えます。調伏や首伝説は、こうした将門に対する都の人々の恐怖心から生まれたものと考えられます。
将門の乱と伝説を記した『将門記』は、正確な成立時期は不明ですが、平安時代末期頃と見られており、調伏が行なわれたことや将門が冥界から便りをよこしたことが綴られています。次いで、鎌倉・室町期には、『平治物語』や『源平盛衰記』『太平記』『俵藤太物語』などで、首伝説や鉄身伝説、影武者伝説などが語られるようになりました。
更新:12月04日 00:05