元寇防塁(福岡市西区生の松原)
弘安4年5月21日(1281年6月9日)、壱岐・対馬に元・高麗の兵船が襲来し、弘安の役が始まりました。二度目の、本格的な蒙古襲来です。
文永11年(1274)、 朝鮮の合浦を出航した元・高麗軍3万は対馬、壱岐を襲うと10月19日、博多湾に集結。翌20日には分散上陸を開始し、日本の武士団と壮絶な戦いを演じました。集団戦法をとり、弓や火器に優れた敵に鎌倉武士たちは苦戦を余儀なくされますが、夕方になると元・高麗軍は兵船へと引き上げます。そして翌朝、信じがたいことに湾を埋め尽くしていた兵船は一隻もいなくなっていました。
これについては長く、夜間に暴風雨に襲われ、元・高麗の兵船は沈んだといわれてきましたが、最近、嵐は疑問視され、元・高麗の兵船は自主的に朝鮮に引き上げたのではなかったかと見られています。なぜ1日の戦闘で、しかも優勢であったのに、元・高麗軍は引き上げたのか。その理由は、文永の役は日本に対する脅しであり、元軍の勢威を見せ付けておけば、日本は降伏して従属するであろうと元側が見たためともいわれます。
それを裏付けるように翌年、元の使節が訪れて国書を渡そうとしました。彼らは鎌倉に送られて斬られますが、これは若き執権・北条時宗の判断で、あえて処刑することで断固たる態度を元に示したのです。北条時宗は宋から来日した僧・蘭渓道隆より、かつて宋が優柔不断に元と交渉した末に滅ぼされたことを聞いていました。元に対しては、撃退するか、敗れて属国となるか、二つに一つしかないと覚悟していたのです。
そして時宗は、次の元の侵攻に備えて、九州全土と西国の御家人に異国征伐の準備を命じ、征伐に加われない者には、博多周辺に防塁を築くことを命じました。防塁は高さ約2m、底辺の厚さ約3mで、攻めにくく守りやすい石積みの塁壁で、東西20kmに及びます。 弘安2年(1279)には、再び来日した元の使節を、幕府は博多で斬り捨てました。
この日本側の回答に、激昂した元軍はいよいよ本格的侵攻を決定します。 弘安4年5月、元軍は東路軍(兵4万、兵船900艘)、江南軍(兵10万、兵船3500艘)の二手に分かれて、日本侵攻に向かいました。 朝鮮半島を発した東路軍が先に日本に着き、5月21日に対馬に、6月6日には博多の志賀島に上陸します。これに対し日本の武士団は、関東から動員された者も含めておよそ6万5000。侵攻に備えて築いた防塁に拠り、敵を睨みました。そして夜に入ると、日本の将兵は果敢に小船で夜襲を仕掛け、敵兵船に斬り込みます。敵の首をあげ、兵船に火をかけて暴れまわれました。
一方、元軍(東路軍)は、昼間は防塁に拠る日本軍を攻めあぐね、夜には夜襲を受けて消耗し、主力軍の江南軍の到着を待ち望みます。その江南軍の大船団がようやく姿を現わしたのは、6月の末でした。東路軍と江南軍が合流し、14万もの大軍勢となった元軍は、6月27日、肥前の鷹島に集結。いよいよ上陸して本格的な侵攻を始める準備を7月下旬までに整えます。日本軍も激戦となることを覚悟したことでしょう。
ところが閏7月1日(現在の8月23日)の夜のこと。猛烈な台風が九州を襲い、鷹島に集結していた兵船は、風雨に翻弄されて大破、次々と荒波に飲み込まれていきます。4000艘もの兵船はほぼ全滅し、14万の元軍将兵の約80%が海中に没しました。これでは日本侵攻どころではなく、辛うじて沈没を免れた兵船は撤退するより他はなくなります。また鷹島に取り残された元の将兵は、ことごとく日本軍に討たれることとなりました。
かくして日本は、元の本格的侵攻を撃退することに成功しました。台風を「神風」と呼んだのも、この状況下では当然だったのかもしれません。 もっともこの時点ではまだ元は日本征服を諦めたわけではなく、鎌倉幕府は臨戦態勢を解くことはできません。それによる御家人の負担と、恩賞の少なさが、やがて幕府への強い不満につながっていくことを思うと、元寇はやはり大きな影響を日本の歴史に及ぼしたといえそうです。
更新:11月23日 00:05