2017年08月11日 公開
2023年04月17日 更新
寿永元年8月12日(1182年9月11日)、源頼家が生まれました。源頼朝の嫡男で鎌倉幕府ニ代将軍ですが、悲劇的な最期を遂げたことで知られます。
寿永元年、頼家は源頼朝と北条政子の子として、比企能員の屋敷で生まれました。比企能員は頼朝の乳母・比企尼の養子で、頼家の乳母父に選ばれています。
建久4年(1193)、富士の巻狩りが行なわれた際、12歳の頼家は初めて鹿を射止め、頼朝は大いに喜んで政子に知らせますが、政子は武家の子であれば当たり前と使者を追い返した話が伝わります。またこの時、曾我兄弟の仇討ち騒ぎが起こり、頼朝が死んだという誤報が伝わると、頼朝の弟・範頼は「自分が控えている」と発言したために、後に謀叛の疑いをかけられて討たれることになりました。
建久10年(1199)、父・頼朝が急死。頼家は18歳にして、日本国総守護、総地頭の地位を継承、2代鎌倉殿となりました。頼家は古今例を見ない武芸の達人であったともいわれます。それだけに奢りも生まれたのか、「自分は生まれながらの鎌倉殿である」という態度を取り、頼朝以上の独裁者として、東国武士たちの上に君臨しようとしたと伝わります。たとえば父親の代からの宿老というべき大江広元や三善康信を呼び捨てにしたり、母方の祖父にあたる北条時政すらも、「おい時政」と呼んで、後から母親の政子にこっぴどく叱られます。
しかし頼家は懲りず、大江、三善ら宿老13人が合議制を布くと、これを無視して、妻の実家の比企氏と関係の深い側近5人としか会わぬようになり、一切の政務もこの5人を経由しない限り、署名しなくなりました。 頼家にすれば、宿老たちによって、本来独裁者であるべき将軍の権威が失われていると考えていたようですが、御家人たちにとっては、くちばしの黄色い若殿の我が儘にすぎません。せいぜい自分に災厄がかからぬようにするばかりでした。強く諫言する者がいなかったことも不幸の一つでしょう。頼家は領地争いの裁判で、自ら地図上に黒々と線を引いて、これで収めよと放言したり、頼朝以来の恩賞が500町歩(ちょうぶ)を超えるものはわが直轄地として、新たに功のあった者に与えるとします。
こうした頼家の暴走に対して、将軍就任から1年も経たぬうちに、北条時政や宿老たちが反撃を始めました。 まず頼家を支持していた梶原景時とその一族が鎌倉から追われ、清見関で討ち取られます。 建仁3年(1203)、頼家は病に罹り、一時、危篤状態となりました。すると鎌倉から朝廷に、弟・千幡(実朝)への征夷大将軍任命が申請されます。すでに頼家は死んだことになっていました。さらに頼家の後ろ盾となっていた比企一族は、北条時政の差し向けた軍勢によって攻め滅ぼされ、この時、頼家の息子・一幡も焼死します。これを知った頼家は激怒しますが、母親の政子によって修善寺に幽閉され、翌元久元年(1204)、入浴中を北条の手の者に襲われて、殺害されました。享年23。
武芸に優れ、自己主張が強いのは、あるいは祖父の義朝や伯父の悪源太に似ていなくもないのかもしれません。しかし、御家人が(特に北条氏が)望むかたちの棟梁でなければならなかった鎌倉将軍の微妙な立ち位置にあって、頼家はあまりに無防備・無用心であったということになるでしょうか。一方、この時期の北条氏の手段を選ばぬやり方も、背筋の寒くなるものがあります。
源頼家の墓(伊豆市修善寺)
更新:11月22日 00:05