2017年05月28日 公開
2022年06月16日 更新
曽我兄弟像(曽我寺・静岡県富士市)
建久4年5月28日(1193年6月28日)、曾我兄弟の仇討ちが起こりました。赤穂浪士の討入り、伊賀鍵屋の辻の決闘と並ぶ、「日本三大仇討ち」の一つとされますが、他の二つに比べると、最近はあまり知られていないかもしれません。
安元2年(1176)、伊豆で行なわれた狩の帰途、河津三郎祐泰が、工藤祐経の郎党に討たれたことがその発端でした。暗殺の理由は祐泰の父・伊東祐親と工藤の所領争いにあり、工藤が刺客を放ったのです。祐泰には一萬丸と箱王丸の二人の息子がいましたが、父を失った兄弟は、母親が再婚した曾我祐信のもとで成長することになります。
その後、源平の戦いにおいて、兄弟の祖父にあたる伊東祐親は平家方についたため、捕らえられた上、自害。祖父と父の家が没落する一方で、工藤祐経は源頼朝配下の御家人として、寵臣となっていました。
兄弟は不遇な中で成長し、兄の一萬丸は元服して曾我家を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗ります。一方、弟の箱王丸は箱根権現社に預けられますが、出家を嫌って出奔。叔母が嫁いでいた北条時政を頼り、時政に烏帽子親となってもらって元服、曾我五郎時致と名乗りました。兄弟の母親は、二人が平穏に暮らすことを望みますが、兄弟の復仇の念は強く、工藤を討つ機会を密かに窺い続けます。
そして建久4年5月28日、源頼朝が富士の裾野で盛大な巻狩を行なった最後の夜。頼朝は白糸の滝付近に本陣を置き、工藤祐経は音止めの滝の東に陣を置いていました。兄弟はいくつもの木戸に妨げられながらも工藤の陣に近づきますが、二人が相談しようとすると、近くの滝の音で相手の声が聞き取れません。そこで神に加護を念じると、滝の音が消え、会話ができるようになりました。「音止めの滝」の名は、ここから生まれたといわれます。そしてついに工藤の寝所に押し入った兄弟は、工藤を起こして勝負し、見事これを討ち果たしました。
しかし騒ぎを聞きつけた工藤の配下が駆けつけ、兄弟はさらに10人を斬り倒す奮戦を見せますが、兄の十郎は朝比奈四郎に討たれます。弟の五郎は頼朝の陣所を目指しますが、捕らえられてしまいました。 翌朝、五郎は夜討ちの本意を問いただされると、「工藤を討ったのは、父がむざと討たれた恥を雪がんがためである。我ら兄弟は兄が9歳、自分が7歳の時より片時も復仇を忘れたことはなかった。しかし、ようやく本懐を遂げることができた」と語り、なぜ頼朝の陣所に向かったのかについては、頼朝の面前で自害するつもりであったと応えて皆を驚かせました。工藤祐経が頼朝の寵臣であることを兄弟は承知しており、その工藤を討つことは頼朝に対する反逆につながるため、最初から死を覚悟した上での仇討ちだったのです。
五郎の話を聞いた頼朝は、あたら勇士を失うは惜しいといったんは助命を考えますが、工藤祐経の子が嘆き悲しむ姿を見て、五郎の斬首を決めました。時に十郎22歳、五郎20歳であったといわれます。
曾我兄弟の物語は、その後、能や歌舞伎、浄瑠璃などになって、長く日本人に愛され続けています。
更新:11月25日 00:05