2020年07月21日 公開
2022年03月18日 更新
海尊が衣川合戦後、どこで何をしていたかは不明だ。
だが、海尊には東北地方を中心に、名を変え、長生を得た、あるいは仙人となり、後の世に源平合戦や義経主従の真実を語ったという伝説が、数多く残っている。
たとえば、江戸初期の儒学者・林羅山の『本朝神社考』には、奥州に残夢という奇僧が登場する。
残夢は平安時代末期の元暦や、鎌倉時代の文治年間のことや、義経や弁慶について、まるで目の当たりにしたかのように語った。また、徳川家康の側近であった南光坊天海や、松雪(李氏朝鮮から来日した僧)にも「会ったことがある」と話したという。また、残夢が枸杞飯を好んで食べたことから、長生きしたのはこの枸杞によるものだとされる。残夢は自分のことは多くは語らなかったが、世の人は皆、残夢は海尊だと噂した。
また、天和3年(1683)3月に江戸から東海道を旅したという大森固庵らによる紀行『千草日記』では、3月14日の条に、三保の松原に現われた残夢について綴られている(佐野正樹ほか『昔話伝説研究第十三号』より、以下同)。
ここでも残夢は、平家滅亡を見てきたように語った。しかも、三保の松原に来る前には下野国那須郡雲巌寺や、陸奥国会津郡実相寺にいたというから、各地を渡り歩いていたようだ。
『義経記』の注釈書である『義経記評判』の頭注「ひたち坊」に姿を見せる残夢は、「義経は醜男、弁慶は美僧」などと、それまでの言い伝えとは違う義経主従の人相を語ったという。さらに自分は海尊だと名乗り、義経の最期の地となった衣川を訪れた際に、老翁から貰った赤い果物を食して長生になったと告げた。
『清悦物語』には、常陸坊海尊として、義経の従者であった清悦とともに登場する。海尊は清悦ら仲間4人で衣川に行き、山伏から「にんかん」という赤魚を振る舞われ、長生を得た。
『清悦物語』での海尊は、衣川の合戦において、義経の最期にも付き従い、義経自害の後に御所に火を放ち落ち延びていったという。また清悦は、この合戦の原因に弁慶を挙げ、「万事弁慶の沙汰悪き故也」と非難している。
他にも、岩手県で海尊と名乗る山伏が「弁慶は色白で、やさ男」と語ったなど、枚挙に暇がない。
なぜ、海尊の伝説は、そこまで根付いたのだろうか。
民俗学者の柳田國男『東北文学の研究』には、「どうでもこの人を生かしておかぬと、昔話が成立たぬから困るというような事情が、古い昔からつい近年まで、どこかの隅に隠れてあったのではないかと思われるのである」と書かれている。
海尊の別名とされる「残夢」には、「見残した夢」という意味がある。義経伝説には、人々が見残した夢を語る、海尊のような存在が必要だったのだろう。
最後にもう一つ、海尊が伝える、とっておきの「残夢」をご紹介しよう。
栃木県真岡市の中村城跡には、遍照寺の本堂、庫裡、不動堂、弘法大師堂、講堂や、その他の建物が佇んでいる。
この遍照寺の古誌には、「常陸坊海尊なる者、秀衡の命を受け、義経の子経若を懐にして中村に来り、念西に托す」とある。古誌によれば、念西とは平治年間(1159〜1160年)に中村城に入った中村小太郎朝宗の子・宗村を指す。宗村は剃髪して、念西(中村常陸入道念西)と名乗ったのだ。
念西は、文治中の奥州合戦の軍功により奥州伊達の地を賜り、その地に移り、奥州伊達氏の祖となった。その際に念西は、子の為宗に中村家を譲った。義経の子・経若(のちに中村蔵人義宗、さらに左衛門尉朝定と改名)は、この為宗の子として成人し、家を譲られ、中村城主となったという(小林利男「中村城のこと」〈『真岡市史案内第四号』〉より)。
この伝説が真実だとしたら、海尊は義経を見捨てて逃げた卑怯者どころか、秀衡が義経の子を託した秘密兵器だったのだ。
『義経記』によれば、衣川合戦の際に、義経の妻と3歳の男子と、合戦の7日前に生まれた女子の3人は、傅役の十郎権頭兼房が刺し殺して、義経の後を追ったという。『吾妻鏡』には、義経の22歳の妻と4歳の女子が、義経に殉じたと記されている。
内容に多少の違いはあれども、悲劇であることには変わりあるまい。
だが、もしかしたら、海尊の知られざる活躍によって、「衣川合戦から義経の子の1人が生き延び、新天地で健やかに育ち、中村城主となった」という奇跡が起きていたのかもしれない──そんな夢を見せてくれた海尊は、弁慶と並ぶ、義経にとっての重要な男だったと言っていいだろう。
更新:11月23日 00:05