2020年07月21日 公開
2022年03月18日 更新
平泉、源義経終焉の地(高館義経堂からの風景)
源義経の家臣で、武勇に優れた僧というと、武蔵坊弁慶が有名だが、もう一人、あまり知られていない僧がいる。
常陸坊海尊──。その人生は謎に包まれているが、史料や伝説を見ていくと、重要な人物であったことが浮かび上がってくるのだ。
悲劇の英雄・源義経の側近というと、真っ先に思い浮かぶのは武蔵坊弁慶だろう。
牛若丸(義経)との五条橋での出会いや、「弁慶の立ち往生」と語り継がれる壮絶な最期はあまりにも有名だ。
その弁慶と並び称された、常陸坊海尊という悪僧(武勇に優れた僧)を、ご存知だろうか。
海尊は弁慶と同じく、義経の伝説的な家臣である。快賢、荒尊ともいい、『義経記』(源義経の生涯を綴った室町中期の軍記物語)、『源平盛衰記』(『平家物語』の異本の一種。鎌倉後期以降に成立)の他、延慶本『平家物語』にその名が記されている。
だが、これらの軍記物より比較的信頼のおける『吾妻鏡』(鎌倉幕府の公式記録)には登場せず、確かな史料が存在しない。
ゆえに、その出自は定かでないが、弁慶が比叡山延暦寺出身とされるのに対して、『義経記』によれば、園城寺の僧となっている。
義経は、生後まもなく父親の源義朝を平治の乱(平治元年〈1159〉12月勃発)で失い、7歳で鞍馬寺に入り、のちに奥州藤原氏のもとへ下り、22歳まで平泉で藤原秀衡の庇護を受けたとされる。そうした事情のため、幾世代にもわたる家臣団はなかったという。ゆえに義経の家臣には、僧兵あがりや山賊あがりなど、アウトローな者が多かったと言われている。
海尊が義経の家臣となった経緯はおろか、時期すらも明確ではないが、『義経記』の「平泉にあった義経が、兄・頼朝の挙兵を知り、兄のもとに駆けつける」という場面で、「御曹司の郎等には、西塔の武蔵坊、園城寺法師の尋ねて参りける常陸坊(園城寺の法師で、義経を慕ってたずねてきた常陸坊海尊)、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同じき四郎忠信……」と、その名が登場する。
よって海尊は少なくとも、『吾妻鏡』治承四年(1180)十月二十一日条に見られる駿河黄瀬川陣での、有名な頼朝との兄弟対面よりも前には、義経の郎党となっていたようだ。
海尊は、『源平盛衰記』の屋島の合戦の記事に「武蔵坊・常陸坊、旧山法師にて究竟の長刀の上手にて」と記されており、その武勇は確かだったと考えられる。
しかし、同じ悪僧でも、勇猛果敢で、不器用なまでに義経への忠義を尽くした弁慶とは対照的に、『義経記』で描かれる海尊の姿は、逃げ上手、生き上手で、どこかユーモラスである。
たとえば、義経が吉野に逃げていた文治元年(1185)の出来事とされる場面では、150人の敵を前に、義経と弁慶が一歩も退かぬなか、海尊は誰よりも先に逃げている。
更新:12月11日 00:05