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アンリー・デュナン~赤十字を作った男、波乱の生涯

2020年06月05日 公開
2022年03月18日 更新

鷹橋忍(作家)

財産と信用を失い、故郷を去る

委員会の主役は、もはやデュナンでなく、モアニエに移っていた。何事も慎重に計画的に進めるモアニエと、熱情と直感の赴くまま、時には組織の枠をはみ出すデュナン。やがて2人の間に、すきま風が吹き始める。

デュナンは委員会の活動に没頭しすぎたせいか、自身の会社の経営をますます悪化させてしまった。

1867年、理事を務め、出資元でもあるジュネーブ信用金庫が破産に追い込まれた。これが事業に決定的な打撃を与え、デュナンは、出資者たちから提訴された。

金銭的な信用を大事にするジュネーブでは、「破産は最大の罪」である。このままでは、委員会の信用をも失墜させる恐れがあった。

モアニエは、ここぞとばかりにデュナンに辞任を要請し、デュナンはこれを受け、辞任を申し出て、会議で承認された。

こうしてデュナンは創設者にもかかわらず、委員会から姿を消した。

さらに翌年には、民事裁判所から「意図的に仲間を欺し、金銭的被害を与えた」として有罪が宣告されている。

このことは、かつてはデュナンを称えたジュネーブの新聞でセンセーショナルに報道され、全財産とともに信用までも失ったデュナンは、ジュネーブを去るしかなくなった。その後、彼は二度と、故郷の地を踏むことはなかった。

デュナンの去った五人委員会は、1875年に「赤十字国際委員会」と改称し、バルカン紛争、セルビア・ブルガリア戦争など相次ぐ紛争のなかで、赤十字活動の存在と意義を世界に知らしめていった。

その結果、加盟国の輪は広がり、各加盟国内では、国内赤十字社が誕生していった。日本でも、1877年の西南戦争のときに、日本赤十字社の前身である「博愛社」が設立されている。

当初は赤十字に否定的だったナイチンゲールも、赤十字の意義を認め、イギリス赤十字の創設に尽力している。

一方、ジュネーブを追われるように去ったデュナンは、パリへと向かった。

家賃が払えず、たびたび駅のホームで夜を明かした。貧困者にスープが配布されるとなると、その列に並んだり、慈善団体の世話になったりもしていたと言われる。

幼い頃から施す側であったデュナンが、今度は施される側になったのだ。

すり切れた上着はインクで染め、シャツの襟の汚れはチョークで白くした。履き続けた靴は水がしみ通り、ブカブカになった帽子は紙を詰めてかぶったという。
 

「その名を忘れ去られた男」

困窮にさらされながらも、デュナンはパリやロンドンを中心に、捕虜の保護などの人道的問題を提唱し続けた。

1872年8月6日に、ロンドンで行なった社会科学推進協会でのスピーチは、多くの賛同を得て、『タイムズ』など、マスコミにも大きく取り上げられた。

そして、かのナイチンゲールからは、熱い賛辞と「大いに語り合いましょう」との誘いの言葉が綴られた手紙が送られてきた。しかし、デュナンは誘いに応じなかった。惨めな境遇に、引け目を感じたのかもしれない。

その後も活動を続けたが、貧困と過労は彼の健康を蝕んでいった。演説の途中で失神したこともあったという。

デュナンは衰えた体を抱え、ヨーロッパ各地を転々と放浪し、1876年にシュトゥットガルト(当時ヴュルテンベルク王国の首都)に辿り着く。デュナンはその後、1885年までここで暮らした。

次にデュナンの姿が確認されるのは1887年、スイス東北端のハイデンである。

59歳になったデュナンは胃の病に苦しみ、右手は湿疹ができ、酷い炎症を起こしていた。長い真っ白な顎髭を生やした姿は、実年齢より10歳は年長に見えたという。

デュナンは、彼が赤十字の創立者であることを知ったアルテル博士の支援を受け、老人専門福祉病院に入院した。

1895年、デュナンのもとに、スイスの記者が取材に訪れた。デュナンの話に熱心に耳を傾けた彼は、「その名を忘れ去られた男」と題した記事を、ヨーロッパ各地の新聞社に流した。

なかでも、シュトゥットガルトの大新聞「ユーバー・ランド・ウント・メーア」の一面に、写真入りで大々的に掲載された記事は大評判となった。

デュナンのもとには、ローマ教皇レオ13世の親書をはじめ、王室、政界、友人等から、功績への賛辞、長らく連絡を怠っていたことのお詫びなどを記した書状が殺到した。多額の寄付を申し出る人もいた。

かつて、デュナンがシュトゥットガルトで暮らしていた頃に出会ったルドルフ・ミュラーは、彼の生活と活動を支援するために、有志を集めて「デュナン財団」を設立した。

さらにギムナジウム(ドイツの中等教育機関)の教授に出世していたミュラーは、デュナンとともに赤十字発足の経緯を纏めた書籍の制作に取り組み、それは、1897年に『赤十字とジュネーブ条約の歴史』というタイトルで発行された。この本がデュナンの完全なる復権を後押しした。

ミュラーは、この本に長い手紙をつけてノーベル委員会に送り、ノーベル平和賞にデュナンを推薦した。

その後、紆余曲折はあったが、1901年12月10日付けで、デュナンは第1回ノーベル平和賞に輝いたのである(フランス人経済学者のフレデリック・パシーも同時受賞)。

73歳にして、ついに、デュナンは名誉を完全に挽回できた。まさに、大どんでん返しと言っていいだろう。

自分の足でノルウェーまで賞を貰いにいくのは不可能なほど、体力の衰えていたデュナンであったが、その波乱に満ちた82年の生涯を終えたのは、ノーベル賞受賞の9年後、1910年10月30日のことである。

同年8月には、同志であったモアニエも亡くなっている。赤十字の歴史に、一つの幕が下りたといえるだろう。

デュナンの没後も、国際赤十字は発展を続け、2020年1月現在、世界の赤十字・赤新月社等の数は192社を数える。(ジュネーブ条約の現在の締約国数は196ヶ国)。

デュナンの精神を受け継いだ国際赤十字は、彼が目的とした戦場の救護のみならず、現在では貧困や飢餓、戦争避難民の保護など、人々のあらゆる苦しみの救済を目的とする組織として、今日も敵味方の区別なく、救いの手を差し伸べ続けている。

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