2017年05月12日 公開
2019年04月24日 更新
1910年8月13日、フローレンス・ナイチンゲールが没しました。イギリスの看護婦で「クリミアの天使」と呼ばれ、近代看護教育の生みの親として知られます。
フローレンスは1820年、イギリスの裕福な上流階級である両親の2年にも及ぶ新婚旅行中に、フィレンツェ(トスカーナ大公国)で生まれました。名前のフローレンスはフィレンツェの英語読みです。 父親はウィリアム・エドワード・ショー(後にウィリアム・エドワード・ナイチンゲール)、母親はフランシス・スミスで、フローレンスは次女。両親と子供たちは1821年に帰国します。
当時のイギリスの上流階級では、女性の教育はさほど熱心ではありませんでしたが、父親のウィリアムは女性にも教育は必要であると考え、2人の娘に十分な教育を施します。 具体的にはフランス語、ギリシャ語、イタリア語、ラテン語、哲学、数学、天文学、経済学、歴史、美術、音楽、絵画、詩に至るまでの、本格的なものでした。
そんな中、一説にフローレンスが17歳の時、神の声を聞いたといいます。「私のところに来て、奉仕しなさい」。しかしその時の彼女はどうすれば奉仕できるのか、わかりませんでした。
それから7年後、フローレンスは慈善訪問で接した農民たちの悲惨な生活を目の当たりにし、修道女のように病気やけがをした人たちを助ける、奉仕の仕事がしたいと考えるようになります。 翌年の1845年、25歳の時に従兄の求婚を断り、近所のサリスベリの病院で看護の勉強を開始。1847年にはローマに旅行し、ローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートとその妻・エリザベスと知り合いました。
1850年から翌年にかけては、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在し、初めて体系的な看護理論を学びます。1851年には、不思議なことに再び「他人の評価を気にせず、神に奉仕しなさい」という神の声を聞き、一層、貧民や病気に苦しむ人を助けたいと願うようになりました。 1853年、イギリスに戻ったフローレンスは、貧困女性病人援護の会の会長に推されました。 翌1854年、フランス・イギリス・オスマン・サルディーニャとロシアとのクリミア戦争が勃発。両軍あわせて30万人近くが戦傷死することになります。この時、前線の負傷兵の扱いがいかに悲惨であるかが本国に伝えられ、フローレンスも従軍の意思を固めました。
折しも時の軍務大臣は旧知のシドニー・ハーバートで、彼はフローレンスに戦傷者・戦病者を看護するための従軍を依頼します。フローレンスは女性38人(シスター24人、看護婦14人)のボランティアを組織して、戦地に向かいました。フローレンス、時に34歳。 彼女たちが赴いたスクタリの後方基地と病院はひどく不衛生で、必要な物資もなく、しかも軍医長は縦割り行政から、フローレンスらの従軍を拒否します。しかしフローレンスらは便所掃除からはじめて衛生環境を改善することで、死亡率を数パーセント下げました。
またヴィクトリア女王もフローレンス率いる女性たちを支援します。フローレンスからの報告はハーバートを経て、直接女王に届けられることになり、現場の反対勢力も妨害することができなくなりました。フローレンスたちの手厚い看護は負傷兵や戦病者から大変感謝され、「クリミアの天使」と呼ばれるようになります。後に看護師を「白衣の天使」と呼ぶのはここから生まれました。
しかしフローレンス自身は、そう呼ばれることを必ずしも喜んでいなかったようです。
「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」
彼女は、そう語りました。 なお、クリミアにいた時に、フローレンスは3度目の神の言葉を聞いたといいます。
1856年の終戦後、帰国した彼女はヴィクトリア女王に報告し、戦場の衛生管理の助言を行ないました。しかしクリミアでの激務がたたり、体調を崩して、以後の人生の多くをベッドの上で過ごすことになります。
この頃からフローレンスは、昼は看護活動と後進の指導にあたり、夜は文筆活動にあてるようになりました。文筆活動では生涯に150冊もの本と、1200通もの手紙を書いています。手紙の大半は、世界各地からの看護と衛生に関する質問への返事でした。
1860年、ナイチンゲールの名を冠した看護学校がロンドンの聖トーマス病院内に設立されると、フローレンスは指導要領の細かい部分にまで、目を配ったといいます。翌年、アメリカで南北戦争が勃発。その年、彼女は4度目の神の声を聞いたと伝わります。
1872年、国際赤十字の創設者の一人アンリ・デュナンが、フローレンスの功績を高く評価する声明を発表しました。1887年には英国看護協会の設立を支援。 1901年にはほとんど光を失いますが、1907年には女性で初めてメリット勲章を授かりました。 1910年(明治43年)8月13日、フローレンス、没。享年90。
その遺志によりハンプシャー州の聖マーガレット教会に葬られ、墓石には「F. N. Born 1820. Died 1910.」と、イニシャルと生没年だけが刻まれたということです。
更新:11月21日 00:05