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第50代・桓武天皇への皇位継承

2019年12月30日 公開
2023年10月04日 更新

吉重丈夫

氷上川継の乱

光仁天皇が崩御された直後の翌皇紀1442年=天応2年(782年)閏1月11日、天武天皇の曾孫・塩焼王の子・氷上川継が反乱を起こす。

川継の従者・大和乙人が密かに武装して宮中に侵入したところを、発見されて捕縛される。大和乙人は尋問を受けて川継を首謀者とする謀反の計画を自白する。川継の父は藤原仲麻呂(南家)の乱で戦死した塩焼王、母は井上内親王の同母妹・不破内親王であった。川継は逃亡したが、3日後の閏1月14日、葛上郡で捕らえられる。

氷上川継の罪は死罪に値するところ、たまたま先帝・光仁天皇の喪中だったので「氷上川継等の罪一等を減じ給ふの詔」が発せられ、伊豆国三島(伊豆諸島)へ配流とされた。川継の母・不破内親王(光仁天皇の皇后・井上内親王の同母妹)は淡路国に流された。

この反乱は光仁天皇の崩御直後に起きているので、皇位継承を争った事件の性格を帯びている。やはり山部親王(桓武天皇)の即位には反対勢力が多かったのである。

皇紀1443年=延暦2年(783年)4月18日、藤原式家の藤原良継の娘である藤原乙牟漏を皇后に立てられる。井上内親王と他戸親王を追い落とした藤原式家が、同家の藤原乙牟漏を皇后に立てた。

皇紀1444年=延暦3年11月11日、都を平城宮から山城国乙訓郡の長岡京に遷される。
 

藤原種継暗殺事件

氷上川継の乱から3年経った皇紀1445年=延暦4年(785年)9月23日、今度は藤原種継暗殺事件が発生する。

種継は藤原式家の祖・宇合の孫で、桓武天皇の信任が厚く、長岡京の造宮使に任命され、事実上の遷都の責任者とされていた。ところが遷都間もない延暦4年9月23日夜、種継は造宮監督中に何者かに射殺された。

9月28日、皇太子・早良親王が種継暗殺事件に関与していると疑われ廃太子され、淡路へ配流となる。親王はこの嫌疑を否認され配流の途中で憤死された(36歳)。

もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、早良親王が実際に事件に関わっておられたかどうかは定かでない。

少し前の8月28日、大伴家持が死去した。家持は先の氷上川継の乱への関与が疑われていたが、この種継暗殺事件にも関与していた可能性があると疑われた。生前春宮大夫であった家持は、事件の首謀者として官籍から除名されている。

氷上川継の乱、種継暗殺事件はいずれも、山部親王(桓武天皇)が即位されたことに対する抵抗が原因となっている。その意味では桓武天皇の即位は問題を残していたのであった。

皇紀1445年=延暦4年(785年)11月25日、早良親王(皇太弟)に代わって桓武天皇の第一皇子・安殿親王(あてしんのう、平城天皇)が立太子される。

その後、桓武天皇の第一皇子である安殿親王(平城天皇)が病に倒れ、桓武天皇の妃の藤原旅子(皇紀1448年)、皇后・藤原乙牟漏(皇紀1450年)、妃の坂上又子(同年)、桓武天皇や早良親王の生母の高野新笠(皇紀1449年)が次々と病死され、さらに疫病の流行、洪水などが続いて、それらは早良親王の祟りと恐れられた。

藤原旅子は皇紀1448年=延暦7年(788年)5月4日に30歳で、高野新笠は延暦8年12月28日に70歳で、藤原乙牟漏は延暦9年閏3月10日に31歳で相次いで薨去された。

皇紀1454年=延暦13年(794年)10月22日、都を山城国葛野平安京に遷される。長岡京に都を遷されて僅か10年後のことであった。

皇紀1459年=延暦18年(799年)2月21日、和気清麻呂(67歳)が死去する。

皇紀1460年=延暦19年、凶事が続き早良親王の祟りを恐れられ、早良親王が崇道天皇と追称されて、大和国奈良市八島町崇道天皇陵に移葬された。京の鬼門に位置する高野村(左京区上高野)には、早良親王の祟りを鎮めるために、京で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社が創建されている。

皇紀1466年=延暦25年(806年)3月17日、桓武天皇が在位26年、70歳で崩御される。

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