2019年12月09日 公開
2019年12月19日 更新
令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は称徳天皇と宇佐八幡宮神託事件をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1424年=天平宝字8年(764年)10月9日、孝謙上皇は仲麻呂の乱を平定し、淳仁天皇を廃され、重祚して再び称徳天皇として即位され、皇位に就かれた。形式としては以前皇極天皇が重祚され斉明天皇として即位されたのを先例としている。
皇紀1425年=天平宝字9年(765年)1月7日、天平神護に改元する。
天平神護元年3月5日、称徳天皇は「皇太子の位は天が定められるもの、故に朕も天地が明らかに霊妙な兆候をもって、皇太子の位をお授けになる人が出現すると思っている」と詔され、皇太子を定められなかった。背景には弓削道鏡の存在があったことは明らかである。
また天皇は「淡路におられる人(淳仁廃帝)を連れてきて再び帝として立て、天下を治めさせたいと思っている人もあるらしい。けれどもその人は天地がよいと認めて位をお授けになった人ではない。……」と詔された。先帝・淳仁天皇の復帰を暗に否定しておられる。
この年閏10月2日、「道鏡に太政大臣禅師の位を授け給ふの宣命」が発せられ、道鏡を太政大臣禅師(太政大臣)とする。
11月22日、大嘗祭を催行された。
皇紀1429年=神護景雲3年(769年)5月25日、詔により、孝謙天皇=称徳天皇は異母妹に当たる不破内親王(聖武天皇の皇女)とその王子の氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ、天武天皇の男系曾孫)が孝謙上皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑に処され、土佐国に配流された。
不破内親王の母は夫人・県犬養広刀(あがたのいぬかいのひろとじ)である。新田部親王の王子で天武天皇の孫に当たる塩焼王の妃であった。この塩焼王は先の藤原仲麻呂の乱に加担して殺害されている。
氷上志計志麻呂は父方も母方も天武天皇に繫がる皇族で、当然、皇位継承資格者である。だからこそ、孝謙=称徳天皇はこれを滅ぼされたのである。この不破内親王の同母姉・井上内親王を妃としておられた中納言・白壁王(後の光仁天皇)は天皇の嫉視を常に警戒され、酒に溺れた振りをされ難を逃れようとされた。
孝謙=称徳天皇による恐怖政治が行われ、皇位継承に関して異常事態が発生している。
更新:11月22日 00:05