2019年11月22日 公開
2023年10月04日 更新
淡路島の風景
令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は淳仁天皇をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1393年=天平5年(733年)、天武天皇の皇子・舎人親王の第七王子、天武天皇の孫王として誕生された大炊王で、母は当麻真人山背(たいまのまひとやましろ)である。3歳で父・舎人親王が薨去され、母の身分も低く、天武天皇の嫡孫でありながら官位を受けることはなかった。
皇紀1409年=天平勝宝元年(749年)7月2日、聖武天皇の譲位を受け阿倍内親王が孝謙天皇として32歳で即位される。
聖武上皇は崩御に臨んで、天武天皇の第七皇子・新田部親王の王子(天武天皇の孫)である道祖王(ふなどおう)を孝謙天皇の皇太子に立てることを遺詔された。聖武天皇は阿倍内親王に譲位するに当たって、次の皇位継承者を道祖王と決めておられたのである。
皇紀1416年=天平勝宝8年(756年)5月2、聖武上皇が崩御され、道祖王が聖武太上天皇の遺詔により孝謙天皇の皇太子となられた。しかし道祖王は立太子されて1年後の天平勝宝九年三月、孝謙天皇の勅命で皇太子を廃された。
皇紀1417年=天平勝宝9年(757年)4月4日、天武天皇の第三皇子である舎人親王の王子・大炊王(淳仁天皇)が藤原仲麻呂の推挙で立太子される。皇太子を廃された道祖王に代わって大炊王が立太子されたのである。仲麻呂とその後見人・光明皇后および孝謙天皇の意向が大きく影響している。
皇紀1418年=天平宝字2年(758年)8月1日、大炊王が立太子された翌年、橘奈良麻呂の乱もあって、皇太子・大炊王が孝謙天皇から譲位を受け、「即位の宣命」が発せられて淳仁天皇として即位される(26歳)。孝謙天皇は、女性天皇として初めて太上天皇(孝謙上皇)となられた。
11月23日、大嘗祭を催行される。
皇太子・大炊王(淳仁天皇)は皇位に就かれたが、実際の政治はほとんど藤原仲麻呂が行い、また仲麻呂の後見人として光明皇后(光明子・光明皇太后)が強い影響力を持っておられた。
皇紀1420年=天平宝字4年(760年)6月7日、光明皇后が薨去された。
皇紀1421年=天平宝字5年(761年)10月28日、「平城宮改修のため保良宮に移御し給うの詔」を発せられる。
仲麻呂は平城宮の改築を実施し、その間、孝謙上皇と淳仁天皇は保良宮(大津市の石山国分遺跡周辺)に行幸され、保良宮を行宮とされた。
保良宮滞在中に孝謙上皇が病に陥られ、弓削道鏡の祈禱でこの病が平癒した。これで上皇は道鏡をすっかり信頼されるようになり、道鏡を取り立てて異例の昇進をさせたことから、淳仁天皇や仲麻呂との関係が不和になっていく。そして、淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことで、両者の関係は決定的に対立するようになる。
皇紀1422年=天平宝字6年(762年)6月3日、ついに孝謙上皇は「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告され、再び孝謙上皇が天皇として政治の大権を掌握される。そして上皇が半ば天皇を廃位にするような、極めて異例な行動をとられた。確かに年齢としては上皇が天皇より15歳年長であるが、上皇が天皇から権限を剝奪するような行動は極めて異常なことであった。
皇紀1423年=天平宝字7年(763年)9月4日、孝謙上皇は道鏡を少僧都に任じられる。
更新:11月22日 00:05