2019年10月25日 公開
2020年03月13日 更新
天文2年(1533)7月、里見氏の歴史上の分岐点ともなる大事件が発生した。
里見義通の嫡子義豊が、叔父・実堯と、安房国東部を支配し、里見家宿老ともいうべき正木大膳大夫通綱を殺害したのである。
この事件について、従来語られてきた筋書きは、以下の通りである。
病身であった里見義通は、若くして死の床につき、まだ5歳であった嫡子・竹若丸の養育を弟・実堯に託して、彼が成人するまで国主の座を預けると伝えた。
ところが竹若丸が元服し、義豊と名乗ったのちも、実堯は実権をなかなか返さない。業を煮やした義豊が、ついに天文2年7月27日、短慮であるとする老臣達の諫言を押し切り、居城・宮本城(千葉県南房総市)から打って出て、里見家の本城・稲村城(千葉県館山市)を急襲して実堯を討ち、当主の座を力ずくで奪い取った。
しかし翌年、実堯の子・義堯が逆襲に転じ、義豊を攻め滅ぼし、父の仇を取った義堯が、里見家当主の座を継ぐことになった、というものである。
ところが近年の研究によって、当時すでに義豊は家督を相続し、安房国主としても活躍していたと見られることから、この筋書きは事実とは根本的に異なっていることが判明した。
事件の真相は次のようだったと推測される。
里見義豊は、かねてから不穏の動きがあった叔父・実堯を、自身の政権にとって大きな障害になると判断し、居城・稲村城に呼び寄せて誅殺した。
さらに、実堯寄りの政治姿勢を見せ始めた実力者・正木通綱をも滅ぼした。
逆クーデターともいうべきこの事件は、たちまち国中を大混乱に陥れた。そしてこの行為に反発する動きや、里見氏が成立以来抱えていた内部矛盾が、これを機に一斉に噴き出し、義豊は多方面からの支持を急速に失ってしまった。
一方で実堯の子・義堯は、事件そのものや現体制に不満や批判を持つ人々の受け皿となりえたことにより、最終的に勝利した、ということだったのではないか。
そしてはっきりしていることは、本来歴史に名を残すような存在ではなかったはずの義堯が、この事件によって歴史の表舞台に登場したことである。
内乱に勝利したことで、はからずも里見家の家督を継ぎ、安房国主となった義堯だが、その地位は、嫡家から下剋上によって簒奪したものにほかならなかった。義堯にとって、「簒奪者」のレッテルは、自身の正当性をも併せて、決して享受できるものではなかったであろう。
そのことから、里見氏の歴史のなかで、義堯以前の里見氏、なかでも義通・義豊父子の事績は不当に歪められ、さらに直接の原因となった内乱の構図も、義堯の正当性を訴えるような内容に改竄されていったと考えられる。勝利者の手によって、歴史は書き換えられたのである。
現在、このようなことから、義豊以前の里見氏を前期里見氏、義堯以降を後期里見氏と、里見氏の歴史を分けて考えるようになっている。
更新:11月23日 00:05