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太田道灌の最期~文武兼備の名将はなぜ、謀殺されたのか

2017年07月25日 公開
2022年08月01日 更新

7月26日 This Day in History

太田道灌

今日は何の日 文明18年7月26日

太田道灌、謀殺される

文明18年7月26日(1486年8月25日)、太田道灌が没しました。武蔵守護代・扇谷家の家宰で、文武兼備の名将であり、江戸城を築いたことでも知られます。

東京都内の主要な城跡を訪ねると、たいてい道灌が攻略した歴史を持っています。JR赤羽駅南口からすぐの静勝寺もその一つで、ここはかつて豊島(豊嶋)氏の城・稲付城でした。石段を登って、小高い場所に位置するお寺の境内に立っても、今はなかなか城跡であることを実感するのは難しいですが、道灌は豊島氏の稲付城を攻略すると、江戸城と岩付(規)城を中継する山城として機能させたといわれます。

道灌は永享4年(1432)、太田資清の息子に生まれました。幼名、鶴千代。諱は資長(持資とも)。父親の太田資清は関東管領上杉氏の一族である、扇谷上杉氏の家宰を務めていました。 永享10年(1438)、関東では鎌倉公方の足利持氏と関東管領の山内上杉憲実が対立。 6代将軍足利義教の命により、足利持氏が討たれ、持氏の子・成氏が鎌倉公方に、また上杉憲実の子・憲忠が関東管領に任じられます。いわゆる永享の乱でした。

この時、道灌の父・太田資清は、主家・扇谷家からの要請もあり、山内上杉家の家宰・長尾景仲とともに、新管領の山内上杉憲忠を補佐することになります。長尾景仲は資清の正室(道灌の母)の父で、資清にとって義父、道灌にとって祖父でした。

文安3年(1446)、道灌は15歳で元服。鎌倉五山や足利学校で学問を学んでいたといいます。 ところが、関東はさらに乱れました。享徳3年(1454)、山内上杉憲忠が、鎌倉公方の足利成氏によって暗殺されます。享徳の乱の始まりでした。

翌享徳4年(1455)、上杉一族は報復のため、武蔵の分倍河原で足利成氏と戦いますが、敗北。扇谷上杉氏の当主・顕房も討死してしまいます。この事態に室町幕府は軍勢を送って鎌倉を攻め、足利成氏は下総古河に敗走しました。以後、成氏は古河公方を称することになります。これによって関東は、利根川・荒川を挟んで東北部(安房・上総・下総・武蔵東部)を古河の足利成氏が押さえ、西南部(相模・上野・武蔵西部)を鎌倉の上杉勢が押さえて、対峙することになりました。

そんな最中、太田資清は居館を品川湊の御殿山に置いたといわれます。同年(1455)、道灌は正五位下備中守に叙任されました。康正2年(1456)、25歳の道灌は父・資清より家督を譲られます。家督相続早々に道灌に与えられたミッションは、古河公方勢の南下を防ぐための防衛拠点を築くことでした。まず父親とともに築いたのが武蔵入間郡の河越城です。また一説に岩規城も築いたといわれます。続いて道灌は、利根川河口の千代田に御殿山から本拠を移すことを企図しました。 千代田には秩父江戸氏の居館跡がありましたが、ここを押さえることで、房総の千葉氏の動きを牽制し、また河越、岩規と連繋した防衛ラインを完成させるねらいです。かくして長禄元年(1457)、道灌は完成した江戸城に本拠を移しました。その規模は現在の江戸城の本丸部分にあたるといい、皇居内には「道灌堀」の名で、今でも一部往時の面影が残っています。

以後、道灌は江戸城を本拠とし、敵対する古河公方勢力に睨みを利かせました。 狩りの途中で雨に遭った道灌が、農家で蓑を借りようとしたところ、娘から山吹の花を差し出され、それが「七重八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞ悲しき」に掛けてあることに気づいたというエピソードは、この頃のことでしょうか。

しかし、古河公方との対立は膠着します。文正元年(1466)、関東管領の山内上杉房顕が没し、上杉顕定が跡を継ぎます。その頃、山内上杉氏は、武蔵国児玉郡五十子(いかっこ)に築城し、対峙していました。なお応仁元年(1467)、京都では応仁の乱が勃発します。

文明3年(1471)、南下した足利成氏軍を上杉方が撃退、一時、古河城も攻略しますが、翌年、成氏が反攻に転じて古河城を奪還。さらに五十子の陣を攻めて、道灌の主・扇谷上杉政真が討死します。扇谷上杉家は政真の叔父・定正が跡を継ぎました。さらに文明8年(1476)、山内上杉家の家宰職を弟が継いだことに不満を抱いた長尾景春が、古河公方側と結んで鉢形城で挙兵。翌年、景春は五十子の陣を襲い、山内上杉顕定、扇谷上杉定正は大敗を喫します。長尾景春の乱でした。これに石神井城の豊島泰経が呼応し、江戸城と河越城の連絡が遮断されます。事態を重く見た道灌はすばやく動きました。ここから獅子奮迅の活躍が始まります。

文明9年(1477)3月、道灌は長尾景春方の小磯城、溝呂木城を抜くと、4月には豊島泰経軍を江古田・沼袋の戦いで破り、一気に居城の石神井城を攻略、豊島の勢力を一掃します。さらに5月、道灌は武蔵国・用土原・針谷の戦いで長尾景春軍を撃破。翌文明10年(1478)には武蔵・小机城をはじめ、相模の長尾方の城を一掃しました。同年12月には古河公方の有力武将・千葉孝胤を下総国・境根原の戦いで破り、文明12年(1480)、長尾景春の最後の砦であった日野城を攻略して、乱は鎮静します。 そして文明14年(1482)、古河公方足利成氏と山内・扇谷両上杉氏とが和睦。30年近くも続いた享徳の乱はようやく終わりました。

この乱を終息させた最大の功労者が道灌であることは、誰もが認めるところであったでしょう。しかし、道灌の実力と勢力、人望は、主君の扇谷上杉定正には面白くないものでした。そして「道灌謀叛」の讒言をやすやすと信じ、文明18年(1486)、糟屋館(現在の伊勢原市)に道灌を招いて風呂に入れ、無防備のところを刺客に襲わせます。道灌、享年55。

最期に「当方滅亡」と叫んだという道灌、どんな思いであったのでしょうか。 彼がひとたび収めた関東の争乱が、再び収まることになるのは、およそ100年後の徳川家康の江戸入府ということになります。

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『歴史街道』編集部