2019年10月25日 公開
2020年03月13日 更新
館山城(千葉県館山市)
『南総里見八犬伝』のモデルとして知られている安房の戦国大名・里見氏。
しかし、実際の里見一族については、あまり語られることがない。
そこで、現在発売中の月刊誌『歴史街道』11月号では、里見氏研究の第一人者である滝川恒昭氏に、里見氏の歩み、北条氏に対抗できた要因などを解説していただいた。ところが驚くべきことに、最新の研究では「里見氏の前半の歴史は、書き換えられたもの」と考えられているという。その一部を抜粋して、紹介しよう。
房総里見氏については、曲亭馬琴『南総里見八犬伝(以下『八犬伝』)』のモデルになり、その『八犬伝』がさまざまに姿を変えながらも、いまなお人々に親しまれていることもあって、その名は一般にもかなり知られている。
ところが『八犬伝』に加え、江戸時代に想像や願望で作られた系図や軍記物語によるイメージが広く定着してしまったことから、現在では史実とはまったくかけ離れた里見氏像が一般化している。
そこでここでは、『八犬伝』などによるイメージを拭い去り、さらには近年発見された史料や研究の進展によって、明らかになってきた里見氏の実像について、最新の成果をもとにみていきたい。
里見氏は、清和源氏源義家(八幡太郎)の孫・新田義重の子義俊が、上野国碓氷郡里見郷(現群馬県高崎市)を領し、そこを名字地としたことに始まる家系である。
その後、関東・近畿・北陸・東北など全国各地に一族が分出・発展したようであり、房総里見氏もその流れをくむ一族とされる。
房総里見氏の登場については、永享12年(1440)に起きた結城合戦で、結城城(茨城県結城市)が落城した際、初代・義実が秘かに城を脱出して安房国に逃れ、数年の雌伏の後、その英雄的資質を発揮して瞬く間に安房国内を統一し、里見氏を称することになったことから始まる、と語られてきた。
だがこのストーリーは、年代や状況に照らしても矛盾点が多いことから、近年は否定されている。代わって唱えられているのが、次のような説である。
享徳3年(1454)から起こった、関東版・応仁の乱ともいえる享徳の乱の際、公方足利成氏の命によって、上杉氏が支配していた安房国に初代・義実が派遣され、足利氏勢力を糾合するかたちで安房を統一していったのではないか、とするものである。
ただ義実その人についても、存在自体は確実とみられるものの、実在を裏付ける確かな史料が確認されていないことから、この説とて、決定的なものではない。
里見氏の存在が確実な史料から確認できるのは、系図上では義実の孫とされる義通以降であり、その史料上の初見は、永正5年(1508)、安房一国の惣社たる鶴ケ谷八幡宮(千葉県館山市)の修造棟札とされていた。
しかし、それを遡る里見刑部大輔宛の足利政氏書状が近時発見されたことにより、里見義通による安房支配を含め、里見氏の房総登場から権力確立までの実態については、現在ますます謎が深まっている状況である。
更新:11月22日 00:05