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北条氏綱の遺言・五箇条の訓戒~義を専らに守るべし

2017年07月19日 公開
2022年08月01日 更新

7月19日 This Day in History

小田原城
 

今日は何の日 天文10年7月19日

相州太守・北条氏綱が没

天文10年7月19日(1541年8月10日)、北条氏綱が没しました。伊勢宗瑞(北条早雲)の息子で、宗瑞の跡を継いで、関東に北条氏の勢力を拡大した2代目として知られます。

氏綱は長享元年(1487)に伊勢盛時(宗瑞)の嫡男に生まれました。宗瑞の年齢については、従来唱えられていた説よりも20歳以上若かったのではないかという説が、最近では有力です。幼名は千代丸、通称は新九郎。氏綱が生まれた年に宗瑞は、甥の龍王丸(今川氏親)を今川家当主の座に据え、その功績から興国寺城主となりました。

永正15年(1518)、宗瑞の隠居により、32歳で氏綱は家督を相続。本拠を伊豆韮山城から相模小田原城へ移し、代替わり検地を行なっています。大永2年(1522)より、氏綱は寒川神社をはじめ、領国内の有力寺社の再建造営に力を入れ、その際に自らを「相州太守」と称し、事実上の相模の支配者であることを印象づけました。同3年(1523)、姓を伊勢氏から鎌倉幕府執権の北条氏へと改姓、単なる自称ではなく、朝廷の正式な認定を受けた改姓であったといわれます。もちろん関東ゆかりの北条氏を称することで、相模・伊豆の支配の正当性を主張するものでした。

さらに享禄2年(1529)頃、執権北条氏の古例に倣って、従五位下・左京大夫に叙任されます。これによって家格も、周辺の今川氏、武田氏、関東管領の上杉氏と同格となりました。その少し前の大永4年(1524)より、氏綱は山内・扇谷両上杉氏の領国へ侵攻を開始。高縄原の戦いで扇谷勢を破り、江戸城を奪取すると、さらに岩付城などの武蔵北部、下総方面へと勢力を広げます。しかしこれに対し、扇谷・山内両上杉氏、古河公方・足利高基、甲斐の武田信虎、安房の里見氏らが手を組んで、氏綱は一時期、四面楚歌に陥り、里見の軍勢に鎌倉まで攻め込まれて、鶴岡八幡宮が焼失する事態となりました。ところが天文2年(1533)、里見氏に内紛が起きると、氏綱は内紛で里見義豊に粛清された里見実堯の遺児・義堯を支援し、義豊を討たせて里見の勢力を削ぎます。続いて天文6年(1537)に扇谷上杉朝興が没し、若年の朝定が跡を継ぐと、すかさず武蔵河越城に出兵して、扇谷上杉氏の本拠を攻略しました。これにより長年の抗争の勝利を決定づけます。

同年、氏綱が家督相続を支援した今川義元が、長年敵対していた甲斐の武田信虎と甲駿同盟を結ぶと、氏綱は激怒して宗瑞以来の駿相同盟を破棄し、河東方面(富士川以東)を占領。 形骸化していた今川氏との主従関係を解消し、完全な独立大名となりました。一方、氏綱の房総方面進出は、小弓公方と対立する古河公方と利害が一致しました。そして古河公方・足利晴氏は北条氏綱・氏康親子に小弓公方征伐を命じ、天文7年(1538)、第一次国府台合戦が起こります。この戦いで氏綱は、小弓公方・足利義明、里見義堯連合軍を破り、足利義明を討ち取って、小弓公方を滅ぼしました。 これによって北条氏の勢力は、武蔵中部から下総西南部まで拡大することになります。また小弓公方を滅ぼした功績により、古河公方・足利晴氏は氏綱を関東管領職に任じました。 幕府から正式に任じられたものではないにせよ、氏綱は関東・東国の勢力に対して、一定の地位を獲得したことになります。

さらに天文8年(1539)、氏綱は娘(芳春院)を古河公方・足利晴氏に嫁がせ、これによって氏綱は足利氏御一家の身分を得て、「関東八ヵ国の大将軍」の資格を得たと讃えられました。確かにその版図は、伊豆・相模両国に加え、武蔵半国、駿河半国、下総の一部と広大なものとなり、身分も古河公方・足利家に次ぐもので、まさに関東一の戦国大名にまで上りつめたのです。そして最後の大仕事となった鎌倉鶴岡八幡宮の造営を行ない、上宮正殿遷宮を見届けた半年後の天文10年、氏綱は後事を息子の氏康に託して没しました。享年55。

氏綱は死に臨み、五箇条から成る訓戒状を氏康に遺しました。 その内容は
一、義を重んじること
二、人には捨てるような者はいないので、家臣・領民を慈しむこと
三、驕らず、へつらわず、己の分限を守ること
四、倹約を重んじること
五、勝ちが続くと驕りが生じるので注意すること
などが記されています。氏綱の人柄や、家を守り、領国統治を行なうにあたっての考え方がよくわかります。

最初の義について、その一部分をご紹介しておきます。

「大将によらず、諸将までも義を専らに守るべし。 義に違ひては、たとひ一国二国切取りたりといふ共、後代の恥辱いかが。 天運尽きはて滅亡を致すとも、義理違へまじきと心得なば、末世にうしろ指をささるる恥辱はあるまじく候。 昔より天下をしろしめす上とても、一度は滅亡の期あり。 人の命はわずかの間なれば、むさき心底、ゆめゆめあるべからず」

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