事前盟約説がなかったことを明快に論じたのが、宮本義己氏である(宮本:2008)。宮本氏は三成が真田氏に宛てた2通の文書を根拠にして、兼続と三成との事前盟約説を否定している。次に、(慶長5年)7月晦日付石田三成書状(真田昌幸宛)の内容を掲出しよう(「真田家文書」)。
この書状の省略した冒頭部分では、三成が挙兵する計画を事前に知らせていなかったことを詫びている。このような事情を看取すると、真田昌幸にさえ西軍決起の情報が届いていなかった様子がうかがえる。昌幸と三成とは相婿の関係であった。そのような深い関係であっても、この段階に至るまで、三成は何も知らせていなかったのである。
この書状を見ると、三成が昌幸を通して景勝のもとに使者を向かわせていることが判明する。文中の案内者とは、土地の事情に詳しい、道案内のできる者という意味である。宮本氏が指摘するように、これより以前に三成は景勝との交渉ルートを持たなかったと考えられ、関係が深い昌幸を通して、景勝との交渉を進めようとしたのである。
結局、三成がもっとも近しい昌幸にすら挙兵の相談していなかったのだから、交渉ルートのない景勝に先に打ち明けることなど考えられないのである。
(慶長5年)8月5日付の石田三成書状(真田昌幸宛)によると、三成が昌幸を通して、景勝と交渉を円滑に進めようとした様子がわかる。三成は沼田を経て、会津へ飛脚を送ろうとするのであるが、その間に他領があるので、いささか困難であった状況がうかがえる。三成は軍勢を遣わすなり、金品を贈るなりしてでも、書状を景勝のもとに届けたいと昌幸に懇願している。三成は飛脚を景勝のもとに送る際、昌幸の助力が必要だった。
三成が託した書状とは、上杉家に関東出兵を依頼するもので、その件について、昌幸からも景勝を説得していただきたいと願っている。つまり、三成は景勝に関東への出兵を依頼するにあたり、直接の交渉ルートがないため、昌幸の口添えが必要だったのである。
同書状には、越後(堀秀治)からも豊臣秀頼に奉公したいとの報告があったと記す。真偽のほどは不明であるが、堀氏が豊臣方に与したら、景勝は安心して関東に出陣できるからだろう。三成が景勝を説得するため、あやふやな情報を与えたことも否定できない。いまだ三成は、方々に味方を募っているのが現状であった。
次に、(慶長5年)8月10日付の石田三成書状(真田昌幸・信繁宛)を確認することにしよう(「真田家文書」)。
三成は昌幸を通して、景勝が西軍に味方するように交渉しており、その人柄に及んでまで助言をしている。しかもこの時期、家康は7月24日の小山評定を踏まえ、会津征伐から反転して西上の途についていた。いまだ景勝を説得できていない三成の、かなり焦っている状況がうかがえる。
ここまで見れば明らかなとおり、景勝・兼続と三成とは特段懇意でなかったようで、事前盟約説が成り立つわけがない。実情は、この段階に至っても、三成は昌幸を通して景勝と交渉をしていたことになろう。
※本稿は、渡邊大門著『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月22日 00:05