今井林太郎氏は、5月以前に三成と兼続との間で策謀をめぐらした証拠がないこと、むしろ景勝が家康と戦う決意をしてから、提携を結ぶべく連絡を取り合ったと指摘する。また、「書簡の用語に疑わしい点」があることから、後世の人の偽作であろうと否定的な見解を示している(今井:1961)。この書状以前に三成と景勝が策謀したことを示す史料がない以上、事前盟約説は認められないということになろう。
当時、大坂から会津まで行くには、約2週間もかかった。この書状には「先日」とあるが、具体的に受け取った日が書かれていない。いずれにしても、手紙をやり取りしている間に情勢の変化も考えられるのだから、仮に密約があったとしても、かなり綿密かつ周到な準備が必要だった。現実問題として、挟撃は至難の業ではなかったのか。
原文にある「天ノ與(あたえ)ト」であるとか、「無二ノ味方」などの表現はいささか違和感が残るが、近年になって、三成が右の文言がある文書を発給していたことが明らかにされている(「真田家文書」)。少なくとも「天ノ與ト」という文言は、偽文書の証拠にはならないようである。
しかし、史料中には「越境」「手段」など当時の用例がない文言が見られるので、創作されたものか偽文書の可能性が高いといえる。どう考えても、この書状には全体的な違和感が拭いきれないのである。
ほかに事前盟約説を採用するものに、編纂物の『会津陣物語』がある。水野伍貴氏の指摘によると、同書は上杉氏が徳川氏に敵対行動を取った責任を直江兼続一人に押し付けようとして、上杉氏にゆかりのある筆者の杉原親清により、創作された可能性が極めて高いとする(水野:2016)。この点は、もう少し説明が必要だろう。
「直江状」は、上杉方の文書集『歴代古案』に写が収録されている。上杉方の文書集に載っている以上、「直江状」は本物だったに違いないという論者がいるほどである。しかし、文書集や『会津陣物語』などが、執筆あるいは史料を収録した意図を汲み取らなくてはならないだろう。ともに、上杉方の人物が関与しているからである。
水野氏によると『会津陣物語』の記述には、会津征討前の景勝が戦いに主体的に取り組んだように描かれていないと指摘する。むしろ主体性があるのは兼続で、三成と事前に密約を結ぶなど、対家康の急先鋒として描かれている。また、兼続は上杉氏の重臣として位置づけられているが、人間性は横柄で、好人物ではない印象が強く残る。
結論をいえば、『会津陣物語』の内容は、上杉家は兼続によって家康との戦いを強いられたのであって、決して景勝の判断ではなかったとしている。それは、兼続が執筆した「直江状」も同じ位置づけということになろう。
兼続が亡くなったのは、元和5年(1619)12月19日のことだった。不幸なことに兼続は継嗣に恵まれず、直江家は断絶を余儀なくされた。直江家断絶は、上杉家にとって好都合だった。関ヶ原合戦の責任を兼続に転嫁しても、直江家から苦情が来ないからである。
明確な根拠は提示できないが、『会津陣物語』の記述が兼続の暴走ぶりを強調しているのも、「直江状」の写が上杉方の文書集に残るのも、すべて兼続に責任を転嫁しようとしたからではないだろうか。それは「直江状」が上杉氏の正義を示す内容だからというよりも、兼続の責任を示す証拠史料として、であろう。
更新:11月22日 00:05