2020年01月30日 公開
2023年10月04日 更新
それがどれだけ困難きわまる工事だったか、南が「自分の代わりに」と九州から遣わしてくれた広瀬井手の作業員たちが、幾人も命を落としていることからも容易に窺える。
しかし、朔郎の提案した竪坑による工法が、この世紀の難工事をやり遂げさせた。かれらは鋼のような岩盤を砕き、迸る水を凌ぎ、ついに長等山に風を通した。
吹き抜けてゆく風の中で、北垣と朔郎は目頭を熱くして肩を抱き合ったが、驚くべきは測量の正確さだった。
貫通した隧道は、長等山の東西両面とふたつの竪坑から掘り進められたのだが、その中心線の誤差はわずか米粒ひとつ分しかなかったのである。島田の技術の素晴らしさを物語っている。
「これで、疏水はできる」
北垣は確信したが、まもなく朔郎は現場を離れ、渡米した。
用水路の活用について最新の知識を仕入れるためだったが、帰国するや、とんでもない提言をした。水車の動力を利用した工場の誘致を中止するべきであると。
「そのかわり、水力発電所を建設するのです」
朔郎の言に、北垣は困惑した。発電所など、日本人のほとんどが見たことも聞いたこともない。電気を作っていったいなにができるのだと北垣は問うた。
朔郎は胸を張って「なんでもできます。電気によって京を復興するのです」と答えた。北垣は、それを容れた。
ただ、ここに大きな問題が生じた。資金だった。工事を支える予算が足りない。
人口が減少して荒廃しきった京都は税収が乏しく、とてもではないが、このまま工事を進めてゆけば、やがて財政が破綻する。打開する方策は、たったひとつしかない。特定財源。つまり、使途を特定して徴収される目的税である。それはできないと、誰もが呻いた。
「市民は生きていくのが精一杯です。これ以上税金を納めさせるのは、あまりにも酷です」
だが、北垣は市民の前に立った。そして、頭を下げ、懇請した。京都に琵琶湖の水を引かせてほしいと。市民は硬直した。苦しみに喘ぐ日々の中、さらなる苦しみを味わわせるに等しかった。
しかし、このとき、奇蹟が起きた。市民から、声が上がったのだ。
「税金、納めますよ。当たり前やないですか。疏水は、わてらの暮らしを豊かにしてくれはるんやろ。命の元でっしゃろ。せやったら、納めます。わてらが生きてくための水や。わてらが銭を払うて引くのが当たり前や」
北垣は、泣いた。嚙み締めていた口唇から嗚咽が迸り、都人の心映えに感激し、ただ泣いた。
かくして工事が再開され、やがて完成の日を迎えた。起工してから五年の月日が流れていた。
水は、来た。京都の大地と人心を潤すための水だった。
山県有朋、松方正義、西郷従道、榎本武揚など文武百官打ち揃っての竣工式が催されたのは、明治23年4月9日だったが、その前夜、京都は誰ひとりとして体験したことのない夜会祝典に包まれた。
市中全戸に提燈が灯され、明治天皇と昭憲皇太后の御臨幸を仰ぎ、如意ヶ嶽に大文字が焚かれ、夷川船溜の岸辺に禁門の変で焼かれずに守られた月鉾、鶏鉾、天神山、郭巨山の山鉾も繰り出したのである。
送り火と御霊会が同時に催されることなど、ありえない。しかしこの日、京都は極彩色の奉典に包まれた。誰もが琵琶湖の水を迎え、手放しで喜び、喝采した。
官民だけではない。送り火を見下ろす祖霊も、山鉾に祓われるべき疫神も、そこかしこに祀られている御霊までも、生まれ変わろうとしている京都を言祝いだ。
千年の夢が実った。出会う庶民はこぞって北垣に感謝し、工事の関係者を讃えた。
が、北垣は涙を溢れさせながらも苦笑し、秋に女婿に迎える朔郎に尋ねた。このまま京都に住みたいかと。朔郎は首を振った。
「東京で待っている学生に、このたびの体験と最新の技術を伝えてゆかねばなりません」
「それでいい。わたしたちは与えられた使命をこなした。それだけのことだ。琵琶湖疏水を引いたのは、京都の人々だ。この先も、かれらが京都をつくり、守り立ててゆくのだ」
「またどこかでお仕事をご一緒できますか」
「むろんだ。しかし、琵琶湖疏水よりも大変な作事になるかもしれんぞ」
朔郎と島田は「望むところです」という言葉を笑顔に凝縮させた。
かれらの会話は、ほどなく現実のものとなった。
明治27年(1894)、北海道長官となっていた北垣は、朔郎と島田を招聘して遠大な計画を打ち明けた。
北海道官設鉄道で、かれらは上川線、宗谷本線、根室本線の調査および建設に邁進してゆくが、それはまた別な物語である。
更新:12月04日 00:05