2020年01月30日 公開
2023年10月04日 更新
幕末の戦乱、帝の東遷……。明治初期の京都は、苦境に喘いでいた。
その時、立ちあがったのが、時の京都府知事・北垣国道と、若き技術者たちだった。
「琵琶湖の水を引き、京都に活気を取り戻す」
男たちは、不可能と思われた難工事に挑んだ。
京都は東山の梺に、この国でも指折りの散策路がある。ゆるやかに水路がうねり、春ともなれば桜の花筏がたゆたい、訪なう者は皆、そこに敷かれた石畳を踏みながら逍遙してゆく。
この水の径が、大津と京都を結ぶ琵琶湖疏水である。大津の三保ヶ崎にある取水口から長等山を貫いた第一隧道を抜け、山科を巡り、第二・第三隧道を流れて京の玄関口である粟田口の蹴上へと注ぎ込んでゆく。
こんにち、哲学の道と呼ばれているのは蹴上で分岐した疏水分線の堤で、南禅寺の水路閣から永観堂や鹿ヶ谷を抜けて銀閣寺の参道へ到り、北白川を蛇行して高野川を跨ぎ、下鴨神社の裏手を回り、やがて賀茂川へと達する。
本線もまた、蹴上の船溜から平安神宮の建つ岡崎を巡って鴨川へと注がれているから、このふたつの疏水はひとたび分かれてまた合わさることになるのだが、ともかくも、琵琶湖から流れ出した水は巡りに巡って、やがて鴨川の水となってゆく。
この第一疏水、開通時の総延長は19・3キロ、そこに含まれる分線は8・4キロ。明治18年(1885)に着工され、明治23年(1890)に完成した。
そもそも、琵琶湖の水を京都へ引くのは、都人の夢だった。
桓武天皇がこの平安の地に遷都して以来、都人は水に難渋してきた。たしかに京都はもともと低湿地であり、地中深くに巨大な水脈を抱えている。しかし、農業や防火のための水は、点在する沼や井戸の水ではとてもまかない切れない。
鴨川や桂川が都の東西を流れてはいるものの、ときに氾濫、ときに旱魃を繰り返し、賽の目のようにままならない。
「水が欲しい、安定して供給できる水が欲しい」
そう、咽喉から手が出るように冀ったのは、京都府知事として赴任した北垣国道だった。
但馬出身の志士として維新の嵐をくぐり抜けた北垣は、理想肌の人物だった。都人を幸福に導きたい。そのような志を抱いていた。ところが、着任するや、絶望した。そこにあるのは、廃墟と見まごうばかりの荒地だったからだ。
禁門の変や鳥羽伏見の戦いの舞台とされた京都は、目も当てられないような惨状を呈し、それから十数年経って、少しずつ復興はしていたものの、ひとびとは疲れ果て、生気を失くしていた。
いや、単に戦さ場となっただけではない。千年に一度の事態が出来していた。
奠都である。
帝が東遷し、皇族、公家、百官、禁裏出入りの商人や職人が、次から次へと京都を後にして東京へ遷っていった。
もっとも、京の都が廃されたわけではない。実際、京都御所は保存されていたし、後の大正・昭和の即位の礼や大嘗祭も、京都御所において執り行なわれている。
明治の前半ともなれば尚更で、そうしたことからいえば、この時期、日本は東西両京であったともいえる。しかし、北垣の着任時、京都の零落ぶりはあまりにも哀れだった。すみやかに手を打たねばならない。
「水だ。水さえあれば、水さえ京都の隅々に行き渡れば、灌漑が行なえる。稲作が広がり、工場を次々と建ててゆける。都に絶望した人々も戻ってくる。家屋も建てられ、市場も開かれ、人や町は活気を取り戻す。なにより、水なのだ」
その水が何処にあるのかといえば、東山の向こう側、比叡の山塊を越えた先に、満々と湛えられている。永遠の水甕、琵琶湖である。
その水を引くしかない。古えより、都人は皆、それを願ってきたが、疏水の開鑿は夢でしかなかった。しかし、時代は変わっている。水は引ける。
「疏水を造ろう」
北垣は、決断した。
更新:12月10日 00:05