2019年06月30日 公開
2022年06月28日 更新
このような兵力と兵器で、両国はいかに戦おうとしていたのだろうか。
清国はまず、海軍をもって渤海湾口を制し、陸軍の海上輸送を護衛させる。そして、朝鮮半島に駐留する陸軍と、輸送された陸軍を平壌付近に集中させ、日本軍を朝鮮から駆逐しようと考えていた。
一方、日本は作戦を2期に分け、第1期には、まず第五師団を朝鮮に派遣して清国軍を牽制し、その間に艦隊を派遣して、黄海および渤海の制海権獲得に努める。
第2期は、第1期の海戦結果によって異なる。
制海権を獲得した場合には、逐次陸軍を渤海湾頭に送り、直隷平野(北京周辺の平野)において清国軍と決戦する。
制海権が日清いずれにも決しない場合には、朝鮮に陸軍を増派して、朝鮮の独立を援助する。
制海権が清国軍に奪われた場合には、第五師団を支援しつつ、国土の守備を固め、清国軍の来襲を撃退する。
この作戦計画から判断すると、清国は、日本軍を朝鮮から撃退しさえすれば良しと考えており、日本艦隊の撃破や、日本本土への進攻は想定していない。
一方、日本は朝鮮の独立を保障するには、清国軍を朝鮮から撃退するだけでなく、直隷平野での決戦で、軍事的勝利を得なければならないと考えていたことがわかる。
では実際に、戦争はどのような経緯をたどったのだろうか。
明治27年(1894)、朝鮮で東学党の乱が起きると、日清両国は朝鮮に派兵する。
7月25日に、豊島沖海戦が勃発し、日本海軍が清国海軍に大勝。
7月29日、陸上戦闘の緒戦となる成歓の戦闘でも、日本軍は大勝を収める。
日本陸軍は北上し、9月15日には、清国の朝鮮における最大拠点・平壌を攻撃。これもわずか一日で攻略してしまう。
また9月17日には、黄海海戦で日本海軍が清国艦隊に勝利し、黄海の制海権を獲得する。
10月下旬、日本陸軍は鴨緑江を越えて満洲に入り、11月21日に旅順要塞を攻略。
さらに明治28年(1895)2月2日、北洋水師の拠点である威海衛の砲台を占領する。
一方、日本海軍は威海衛軍港内の定遠などを攻撃し、2月12日、北洋水師を降伏させた。
そして4月17日、下関で講和条約が結ばれ、日清戦争は日本の勝利で終わったのである。
更新:11月21日 00:05