日清講和記念館・料亭 春帆楼(山口県下関市)
明治28年(1895)4月17日、日清戦争の講和条約「下関条約(馬関条約)」が下関の春帆楼で締結されました。
日清戦争が起きた原因は、朝鮮問題とロシアの脅威にありました。西洋諸国によってアジアが次々と侵略され、植民地化される中、日本は強烈な危機意識から明治維新を断行し、近代国家建設を目指します。その一方で、隣国の清、李氏朝鮮に対して、ともに協力して欧米列強に当たることを呼びかけました。しかし清は朝鮮を宗属関係にあるとして、その独立を認めず、かといって自国領すら列強に次々と蚕食されている清が、列強の侵略から朝鮮を守れるはずがありません。そうした中でロシアがシベリア鉄道の建設を始め、虎視眈々と朝鮮半島を窺います。朝鮮半島をロシアに奪われれば、地政学的に日本は横腹に短刀を突きつけられたも同然です。その事態を防ぐべく清に手を引かせ、朝鮮を独立させるために、日本は大国清と戦わざるをえませんでした。
とはいえ、「眠れる獅子」清国の陸軍力は日本の3倍近く、また東洋一と称される北洋艦隊には二隻の新鋭戦艦があり、巡洋艦しか持たない連合艦隊を戦力で上回ります。この容易ならざる相手に明治27年(1894)7月、日本は戦端を開き、9月に日本陸軍が平壌城を攻略、また黄海海戦で連合艦隊が勝利し、翌年、講和することとなりました。
講和会議には日本側全権代表として首相の伊藤博文、外相の陸奥宗光が出席、清側の全権は李鴻章でした。講和の内容はおよそ次のようなものです。
一、朝鮮半島独立の承認
二、台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲
三、賠償金二億両(テール)
四、日清通商航海条約の締結と、沙市、重慶、蘇州、杭州の開市、開港、租界での治外法権承認
交渉の最中、李鴻章が路上で日本人に顔面を狙撃され負傷する事件が起こります。伊藤首相は青くなり、東京大学医学部の佐藤進博士を派遣、懸命な治療の結果、事なきを得ました。負傷しても講和条約締結まで同席した、李鴻章の度量も評価すべきでしょう。
しかし、講和条約締結直後、ロシア・フランス・ドイツから横槍が入ります。世に言う「三国干渉」で、日本に対し、遼東半島の清への返還を求めました。三国を相手に戦うことはできない日本はこれを飲みますが、その直後、ロシアは清と秘密協定を結び、遼東半島の旅順・大連を租借します。これにより日露の衝突の危機が近づくことになります。
更新:11月10日 00:05