2018年01月30日 公開
2022年06月15日 更新
文政6年1月30日(1823年3月12日)、勝海舟が生まれました。幕府の軍艦奉行、陸軍総裁などを務め、西郷吉之助と会談して江戸無血開城を成し遂げたことは有名です。また坂本龍馬の師匠としても知られます。
勝についてはこれまで何度かご紹介しましたが、今日は維新後の、彼の中国観(清国観)を紹介してみましょう。現代に通じる部分もあって、興味深いものがあります。
「支那(シナ)を日本と同じように見るのが、大間違いだ。日本は立派な国家だけれど、支那は国家ではない。あれはただ人民の社会だ」
勝はそう喝破します。勝は日清戦争には終始反対し、日清韓三国合従策を持論としましたが、一方で清国の人々の気質と国家の本質を冷静に見抜いていました。
「支那人は帝王が代わろうが、敵国が来たり国を取ろうが、ほとんど馬耳東風で、はあ帝王が代わったのか、はあ日本が来て、我国を取ったのか、などいって平気でいる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬのも道理だ。 一つの帝室が滅んで、他の帝王が代わろうが、誰が来て国を取ろうが、一体の社会は、依然として旧態を存して居るのだからノー」
「政府などはどうなっても構わない。自分さえ利益を得れば、それで支那人は満足するのだ」
「支那は、流石に大国だ。その国民に一種気長く大きなところがあるのは、なかなか短気な日本人などは及ばないョ」
帝室や政府の興廃を全く意に介さず、自分の利益をまず重んじ、気の長い中国の人々。ある意味、日本人とは真逆ですが、勝は日本人と比較して良し悪しを論じているのではなく、隣国の清国の人々の価値観が日本人と異なることを、よく知っておくことが大切だと訴えているのです。そして、そのことを理解しておかなくては、的確な外交を行なうことはできず、まして勝の主張する日清韓三国合従策など、画餅に過ぎないということなのでしょう。
勝はやみくもに清国と手を結べといっているのではありません。まず相手の本質をよく見極め、それを十分に承知した上で、外交を行なうべきとしました。 勝の洞察は、なにやらそのまま現代の外交に通じるものがあるかもしれません。
更新:11月21日 00:05