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島田虎之助~勝海舟の師、直心影流の剣士

2017年09月16日 公開
2022年06月15日 更新

9月16日 This Day in History

今日は何の日 嘉永5年9月16日
其れ剣は心なり…島田虎之助が没

嘉永5年9月16日(1852年10月28日)、島田虎之助が没しました。直心影流の剣士で、勝海舟の剣の師としても知られます。

虎之助は文化11年(1814)、豊前中津藩士の家に生まれました。9歳の時に父親が没し、母親の手で育ちます。10歳の頃に藩の一刀流剣術指南役・堀十郎左衛門に入門し、めきめきと腕をあげました。数年すると藩内では相手になる者がいないほどの腕前となり、16歳の頃に九州一円の武者修行に出ます。その一方、日田の広瀬塾で学ぶなど、学問にも関心を示しました。

天保2年(1831)、18歳の時に剣術修行に江戸に向けて旅立ちます。しかしまっすぐ江戸には向かわず、下関にしばらく滞在したり、近江水口藩で同郷の儒者・中村栗園で漢学を学びました。剣の腕を磨くだけでなく、それをどう役立てるのかを模索していたのかもしれません。

そんな虎之助が江戸に現われたのは、天保9年(1838)、25歳の時のことでした。虎之助は真っ直ぐ、当代一と称される直心影流・男谷精一郎の本所・亀沢町の道場に乗り込み、試合を望みます。男谷はすんなりと試合を承知し、三本勝負を行ないます。そして虎之助は、一本を男谷から奪いました。

「天下の男谷もさほどではない」

虎之助は鼻息も荒く、次は下谷車坂の井上伝兵衛の道場を訪ねます。井上も男谷と同じく直心影流で、当時指折りの剣士でした。

ところが虎之助は、井上に完膚なきまでに敗れます。天狗の鼻をへし折られた虎之助は、その場で入門を申込みました。すると井上は意外にも、男谷道場で修行した方がいい、と言うのです。「男谷先生とは先日試合をいたしましたが、評判ほどではありませんでした」と虎之助が言うと、井上はにやりと笑います。「おぬしは男谷先生を見誤っておる。先生は試合を申し込まれたら、誰にでも一本を譲って花を持たせるのだ。おぬしも花を持たされたに過ぎぬ。入門を願って再度立ち合ってみるがよい。あのお方の剣は底が知れぬ」

釈然としないまま、虎之助は井上の紹介状を持参して男谷道場に入門します。そして師となった男谷と再度立ち合うと、井上の言った意味がわかりました。竹刀を構える男谷の前に全く手も足も出せず、気圧されて道場の隅にへたり込むしかなかったのです。

男谷道場の内弟子となった虎之助は、猛稽古を続けて頭角を現わし、1年余りで師範免許を授かって、師範代となりました。その傍ら起倒流柔術も学び、さらに学問を重んじ、参禅して精神を練ります。力や技よりも、心のあり方を重視したためでした。

30歳の時に東北へ武者修行に出かけ、江戸に戻ると、師の勧めで浅草新堀に道場を開きました。男谷は自分の従弟にあたる勝麟太郎を虎之助に入門させます。それが後の勝海舟でした。虎之助は麟太郎に、「剣には君子の剣、小人の剣がある」と言い、道場の稽古だけでなく、学問を学び、参禅して心胆を練ることも修行のうちであると説きました。また虎之助は麟太郎に、蘭学を学んで西洋兵学を知ることもアドバイスしています。これは虎之助のいた豊前中津藩の殿様が、代々蘭学に熱心であったことも背景にあるのでしょう。 麟太郎の父親、勝小吉は、虎之助が謹言で真面目な男であると聞いて、巧みに誘い出して吉原に連れ込み、虎之助を閉口させるいたずらも仕掛けています。

「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣また正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」

心を重んじた剣士・島田虎之助は嘉永5年に病を得て、39歳の若さで没しました。勝海舟は後年、虎之助のもとで剣術と参禅修行に励んで心胆を鍛えたことが、幕末の切所でどれほど役に立ったかわからないと、恩師に感謝しています。

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