2017年09月11日 公開
2018年08月28日 更新
明治27年(1894)9月11日、榊原鍵吉が没しました。幕末から明治にかけての剣客で、明治兜割りの逸話でも知られます。
文政13年(1830)、鍵吉は幕府御家人・榊原益太郎の長男に生まれました。天保13年(1842)、13歳の時に直心影流・男谷精一郎に入門します。鍵吉はめきめきと腕を上げますが、家が貧しいため、金を払って進級に見合う免状を受け取ることをしませんでした。このため嘉永2年(1849)、鍵吉20歳の時に、師の男谷が自ら準備して、鍵吉に免許皆伝を与えたといわれます。
男谷といえば勝海舟の従兄にあたり、「幕末の剣聖」として名高い人物ですが、そんな男谷が太鼓判を押したのが、鍵吉の腕前と人柄でした。 安政3年(1856)には、師の男谷の推薦で、幕臣の師弟に武芸を教授する講武所の剣術教授方に任じられます。その腕前は14代将軍家茂の目にも留まり、文久3年(1863)には将軍の供をして上洛することを命じられました。
慶応2年(1866)に将軍家茂が大坂城で没すると、鍵吉は江戸に戻り、職を辞して下谷車坂に道場を開きました。その頃の門弟であったといわれるのが、坂本龍馬を斬ったといわれる今井信郎です。維新の動乱の際には、進んで寛永寺の輪王寺宮公現法親王を護衛し、新政府軍の兵士を斬り倒して法親王を無事に江戸から脱出させました。鍵吉はそのまま車坂の道場に戻っています。その後、明治政府から出仕要請がありましたが、幕臣であるという矜持からこれを受けていません。
しかし明治5年(1872)に士分以上の帯刀が禁じられると、剣術道場は皆、経営に行き詰まります。鍵吉はその救済策として、翌明治6年に「撃剣会」を組織し、見世物興行を行ないますが、剣術を見世物にしたと批判も少なくありませんでした。
明治9年(1876)に廃刀令が出されると、世の剣術離れは一層加速することになります。 そんな中、鍵吉が一躍脚光を浴びたのは、明治20年(1887)に明治天皇が伏見宮邸に臨席された際の催しである「鉢試し」、いわゆる兜割りです。名人が鍛えた兜を、真剣で斬れるかを試すもので、選ばれた剣士は3人。警視庁師範、鏡心明智流の逸見宗助と、同じく上田美忠、そして鍵吉でした。その時に使われた兜は、名人・明珍の作。まず上田が、次に逸見が試しますが、いずれも明珍の兜に弾かれてしまいました。最後に挑戦したのが、鍵吉です。鍵吉が愛用の胴田貫を振り下ろすと、刃はズカリと兜の真ん中深くまで斬り込んだといわれます。切り込みは三寸五分とも五寸とも伝わり、いずれにせよ南蛮鉄の兜が見事に割られました。この時、鍵吉は斎戒沐浴したうえで、白装束姿で臨んでおり、仕損じれば腹を切る覚悟だったといわれます。
鍵吉は明治27年に65歳で没しますが、木刀を腰に差し、生涯髷を切らず、剣一筋に生き、その実力が東京一であることを誰もが認めました。なお逝去する直前、山田治朗吉に道統と道場を譲っています。
更新:11月23日 00:05