慶応2年7月20日(1866年8月29日)、14代将軍徳川家茂が大坂城で没しました。皇女和宮と結婚し、幕末の動乱に直面した若き将軍として知られます。
弘化3年(1846)、家茂は紀州藩第11代藩主・徳川斉順の次男に生まれました。幼名は菊千代。初名は慶福。しかし家茂が生まれた時、父親はすでに他界しており、さらに嘉永2年(1849)、12代藩主を継いだ叔父・斉彊も死去したため、僅か4歳で家督を継ぎます。
安政5年(1858)、13代将軍家定の継嗣問題で、家茂を推す井伊直弼ら南紀派が、一橋慶喜を推す水戸斉昭、島津斉彬ら一橋派に勝利し、さらに将軍家定も病没したため、家茂は13歳で将軍となりました。家定の正室・篤姫(天璋院)は義理の母となります。
文久2年(1862)、17歳の家茂は、公武合体策の一環として孝明天皇の妹宮・和宮と結婚しました。当初は将軍に嫁ぐことを嘆いた和宮でしたが、家茂の聡明さと心優しさに打たれて、次第に仲睦まじくなります。
また、和宮と結婚する前のことでしょうが、家茂が書の達人といわれた老齢の戸川安清から書を習っていた時のこと。家茂は突然、戸川の頭から水をかけて笑い、「続きは明日にしよう」と言って立ち去りました。いつもの家茂公らしからぬことをすると近臣が眉をひそめていると、戸川が肩を震わせて泣いています。驚いた近臣が訊くと、戸川は悔しくて泣いたのではなく、実は老人の彼はうっかり失禁していたのですが、それに気づいた家茂がいたずらを装って水をかけて隠し、「続きは明日にしよう」と言って、戸川の粗相を不問に付していたのです。機転と思いやりのある将軍でした。
文久3年(1863)、将軍としては229年ぶりに上洛して、和宮の兄・孝明天皇に拝謁。攘夷を約束し、攘夷祈願のための賀茂社行幸にも馬上で供をして、将軍が朝廷の下に位置することを世間に印象づけました。しかし当の孝明天皇は妹婿の誠実さを喜び、信頼を深めていくことになります。また攘夷実行の準備として幕府軍艦順動丸に乗り大坂湾を視察した折、順動丸を指揮する勝海舟から軍艦の説明を受け、重要性をたちどころに理解し、さらに勝の軍艦操練所設立の願いをその場で許可しました。この家茂の英断から神戸海軍操練所が生まれ、坂本龍馬や伊東祐亨らが学び、日本海軍の母体となるのです。さらに家茂は後に上洛に海路を用い、海が荒れて家臣らが陸路を勧めても「海上のことは軍艦奉行に任せよ」と断言、その感激が勝海舟に生涯、家茂への忠誠心を抱かせることになりました。
家茂は甘いお菓子が大好きで、歯はほとんど虫歯だったといいます。大奥で和宮と語らいながらお菓子を食べる時が、幸福の時であったのかもしれません。
しかし、時代の荒波は家茂を江戸城内から外に引きずり出します。慶応元年(1865)、第二次長州征伐を指揮するため、3度目の上洛を果たしますが、心労が重なり、翌慶応2年、ついに和宮の待つ江戸に帰ることなく、大坂城内で脚気のために亡くなりました。享年21。
勝海舟は日記に「家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ」と記しています。家茂は和宮への土産として西陣織を用意していましたが、自ら手渡すことは叶わず、家茂の形見として西陣織を受け取った和宮は「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も君ありてこそ」と悲しみを詠んでいます。決して政治で辣腕を振るったわけではありませんが、しかし家茂がもう少し生きながらえていたら、幕末の行方もまた変わっていたかもしれない。そう思わせるような多くの人々から慕われた将軍でした。
芝・増上寺の墓所にある徳川家茂の石塔
(東京都港区)
更新:11月21日 00:05