2018年01月20日 公開
2022年06月15日 更新
勝海舟(国立国会図書館蔵)
明治32年(1899)1月21日、勝海舟が没しました。幕末の幕臣で、咸臨丸が太平洋を横断した際に艦長を務め、神戸海軍操練所を設立。卓越した先見性で幕末の動乱の中、日本が進むべき方向を指し示しました。江戸無血開城の交渉でも知られます。
慶応4年(1868)、江戸城総攻撃を目指す西郷吉之助ら新政府軍が駿府に至ると、勝海舟は事前交渉役として山岡鉄太郎(鉄舟)を派遣します。このとき山岡に同行させたのが、自ら保護していた薩摩藩士・益満休之助でした。
益満は過激派浪士らを使って江戸市中で乱暴狼藉を働かせ、庄内藩などによる薩摩藩邸焼討事件を引き起こした張本人です。益満は事件の折、旧幕府方に捕縛されて処刑されるところを、海舟が引き取っていました。その益満をなぜ海舟は山岡に同行させて、西郷の許へ送ったのか。それはおそらく、西郷への先制攻撃のカードだったのでしょう。
「お前さん方がどんな手を使って徳川家を戦争に引きずり込んだか、全部お見通しさ」
そんなメッセージを益満を使者に立てることで、ピンポイントで西郷に伝えたのです。そこには、海舟と西郷にだけわかる「黙契」のようなものがあったのかもしれません。
海舟と西郷が初めて会ったのは元治元年(1864)9月11日(9月15日とも)、禁門の変後の大坂でした。当時、長州征伐がとり沙汰されていましたが、幕府は諸藩に出兵を命じるものの総督すら決まっておらず、そんな時局の収拾について話し合ったようです。
西郷隆盛(国立国会図書館蔵)
この時、海舟は「幕府の高官は時勢に疎く、責任逃ればかりで決断力がない。もはや国家の大事は幕府に任せておけず、薩摩や越前、土佐といった雄藩が連合して、政務にあたるべきではないか。長州征伐のような内輪もめをしている場合ではなく、外国から侮られぬよう、幕府を廃し、天下の諸侯が協力して国是を決め、外国に対処すべき」と西郷に語ったといわれます。 つまり何よりも大切なのは、欧米列強が日本を窺う今、付け入る隙を与えない国家のかたちをつくることで、有能な人材で構成された政府が外国との交渉にあたるべきである。そのためには幕府を廃止することもやむを得ないと、幕臣の海舟が言って聞かせたのです。
西郷は海舟のこの言葉に大きな衝撃を受け、海舟に惚れ込んだと、大久保利通に宛てた手紙に書きました。海舟は幕臣でありながら、幕府よりもより大きな日本をどうするかという視点で発想しています。幕臣、藩士といった既成の枠にとらわれず、日本人として国難にあたれというメッセージでした。
その後、西郷は第一次長州征伐軍の参謀になると、長州を恭順させて内戦を防ぎ、また長州と薩長同盟を結んで、第二次長州征伐には参戦せず、むしろ長州を支援しました。 さらに四侯会議を催し、雄藩連合が政治の実権を握ることを模索します。西郷はある意味、海舟のアイデアを実現していったと見ることもできるでしょう。
ところが翻って今、大政奉還によって幕府が消滅したにもかかわらず、王政復古の大号令と小御所会議で、前将軍慶喜と佐幕派勢力を新政権から除外し、江戸市中で乱暴狼藉を働いて旧幕府側を怒らせるという姑息な手段で戊辰戦争に引きずり込み、さらには賊軍の汚名を着せ、江戸城総攻撃を行なって江戸の町を灰にするという。
「これが日本人として国難にあたることなのか、幕府を廃せと幕臣の俺が、断腸の思いで御一新への道を示唆したことへの回答がこれなのか」
海舟は、新政府軍の実力者・西郷にそう突きつけたのではないでしょうか。西郷もまた我に返り、その後、海舟との2日間にわたる対面で江戸城総攻撃を中止し、無血開城を決定。徳川慶喜の助命も認めました。海舟は『氷川清話』の中で、この交渉をひきあいに西郷を賞賛していますが、おそらくは幕末に海舟と西郷が結んだ「日本人として国難にあたる」という黙契を西郷が思い出し、素直に態度を改めたことを評価したのではなかったか、そんな気がします。
幕末の早い時期から「これからの日本は何を目指すべきか」を示すことのできる人物がいたことは、日本にとって幸いであったといえるでしょう。そうした人物は、まさに現代にも求められているのかもしれません。
更新:12月13日 00:05