大正3年(1914)1月16日 、伊東祐亨が没しました。日清戦争の際に連合艦隊を率いて黄海海戦に勝利した、初代連合艦隊司令長官として知られます。
伊東祐亨は天保14年(1843)、薩摩藩士・伊東祐典の4男として、鹿児島城下に生まれました。通称は四郎左衛門。伊東家は飫肥藩主の伊東氏に連なる、名門であるといわれます。少年の頃のあだ名は「飯焦がし」。これは通りかかった祐亨に見とれて、女性たちが炊いていた飯を焦がしてしまうからだとか。「よかにせ」だったのでしょう。
和漢の学問を学んだ後、祐亨は藩の開成所で英語をはじめ洋学を学びます。それがきっかけで海軍に興味を持った祐亨は、江戸の江川太郎左衛門の塾で砲術を学び、文久3年(1863)、21歳の時に薩英戦争が起きると参戦。祐亨は西郷信吾(従道)、大山弥助(巌)らとともになんと西瓜売りに化けて、小舟でイギリス艦に斬り込もうとしますが、すぐにばれて失敗しました。しかし、この時のイギリス艦とその砲撃を見た体験が、祐亨をさらに海軍へと駆り立てます。
元治元年(1864)には勝海舟の神戸海軍操練所に入り、坂本龍馬や陸奥陽之助(宗光)らとともに航海術を学びました。戊辰戦争においては阿波沖海戦や宮古湾海戦で、旧幕府海軍と戦います。維新後は明治海軍に入り、明治10年(1877)には日進の艦長に補されました。同年の西南戦争では、西郷隆盛を慕いながらも海軍に留まり、公私を分けたといわれます。
その後、龍驤、扶桑、比叡の艦長などを歴任。豊富な艦長経験から明治27年(1894)の日清戦争に際し、日本海軍初の連合艦隊司令長官を拝命しました。時に祐亨、52歳。同年9月17日、連合艦隊は丁汝昌率いる清国・北洋艦隊と戦闘します。いわゆる黄海海戦でした。
この時、敵を発見した祐亨がまず命じたのは、昼食です。「腹が減っては、戦はできぬ」ということでしょうが、海戦に動じない姿勢を部下に示し、平常心を取り戻す効果もあったでしょう。黄海海戦は正午頃から始まり、両軍砲弾を撃ち尽くして、砲声が絶えたのは夕方でした。連合艦隊10隻は敵艦隊12隻のうち3隻を撃沈し、2隻を擱座・破壊。北洋艦隊は山東半島の威海衛へと逃げ込みます。連合艦隊はさらに威海衛への夜襲を敢行しますが、それに先立ち祐亨は、丁汝昌に宛てて降伏を勧告する手紙を送りました。祐亨と丁は面識があり、手紙には儀礼以上の祐亨の友情が綴られていたといわれます。
しかし、丁提督は降伏を拒否しました。 明治28年(1895)2月4日夜、水雷艇が威海衛に突入し、北洋艦隊の艦艇を次々と葬ります。最強を謳われた戦艦定遠も擱座・沈没し、北洋艦隊は全滅しました。ここに至り丁提督は、イギリス東洋艦隊司令長官を証人として降伏文書を提出。艦船・武器・砲台を代償に、将兵の帰還を許可してほしいというものです。祐亨はその申し出を受け入れ、丁提督に宛ててブドウ酒、シャンパンを各1ダース、串柿を添えて送ります。
しかしその時、すでに丁提督は毒をあおいで自決していました。 祐亨は丁提督の亡骸をジャンク船で送還すると聞くと、「英雄を遇する道にあらず」と押収した輸送船康済号の提供を決定します。ためらう部下に祐亨は、「もし俺が同じ立場になった時、お前たちは俺の体がボートで運ばれてもよいと思うか? 責任はすべて俺がとる」と涙ながらに言い聞かせました。この伊東の決断には、丁提督の部下も感泣したといいます。
丁提督の遺骸を乗せた康済号が威海衛を去る日、連合艦隊は各艦の乗組員が整列して見送り、旗艦松島は弔砲を撃って別れを告げました。祐亨のこの措置は諸外国から高く評価されましたが、一部、批判も出ます。それに対して祐亨は「自分は恐れながら大御心はかくあらせられると平素より服応しており、戦時においてもそれを実行したに過ぎない。お咎めを受けるのであれば、もとより一死をもってお詫びする覚悟である」と応えています。
司令長官時代の祐亨は厳しい訓練を課し、規律にも厳格で叱咤するので、「雷公司令官」とあだ名がつけられましたが、反面、武士の情けに通じた人情家でもありました。そんな祐亨の大好物は酒。祐亨は「米のスープ」と称し、「日本魂の養成はこれに限る」と上機嫌で語ったといいます。そんな伊東の部下になった小笠原長生は下戸。祐亨から「酒も飲めんような意気地のないこっで戦ができるか」と勧められますが、ひたすら固辞。さすがの祐亨も根負けして、「不思議な人間が生まれたもんでごわすなあ」と、それからは甘酒を勧めたとか。
祐亨は日露戦争の際は軍令部長を務め、明治38年(1905)の日露戦争終結後、元帥に列せられました。大正3年、没。享年72。
更新:11月10日 00:05