江戸時代になると、薩摩藩は琉球支配を強化するために、強硬な手段に出ます。慶長7年(1602)冬、島津氏は、幕府の命令で奥州の伊達政宗領に漂着した琉球人を琉球に帰しました。ところが琉球が、そのお礼の使者を出さないという理由で、慶長14年(1609)、幕府に琉球国への軍事行動の許可を願う事態になったのです。
理由は何でもよかったのでしょう。薩摩はどうしても琉球国を手に入れたかったようです。
というのも、関ヶ原の戦いに西軍として参戦して家康と対立した島津氏は、後年、許されて江戸幕府の下に入ることになったものの、敗戦による痛手は大きく、藩財政立て直しのために、琉球の貿易利権に目を付けていたからです。
薩摩に琉球出兵を嘆願された幕府としても、秀吉が行った対外戦争の負の遺産を何とかしたいという思惑がありました。このときはまだ、名目上、明との戦争が続いている状態でした。
なんとか講和を結んで明との関係を修復したい。明にパイプを持つ琉球国を薩摩藩が支配下に置くということになれば、そのルートを使って明との講和交渉がうまく進められるのではないかと考え、琉球攻めを承認してしまうのです。
いざ戦争になると、琉球国と薩摩藩の力の差は歴然です。この間まで国内で激しい戦争を経験し、豊富な武器と軍事経験を積んだ薩摩の軍事力に圧倒され、琉球はたまらず降伏します。
慶長15年(1610)、島津家久は、捕えた琉球国王(中山王)尚寧を江戸に連れていきます。
2代将軍秀忠は、「琉球国は代々中山王の国なので、他姓の人を立て国王としてはならない」と命じますが、島津氏には「琉球の貢税を賜る」という裁定を下しました。琉球国の存続は認めましたが、島津氏に税を納めることになったのです。
3代将軍家光の時代には、島津家久に、「薩摩・大隅両国と日向諸県郡60万5千石のほか、琉球国12万3700石を与える」という領知判物を出しました。琉球は島津氏の領地に取り込まれたのです。
こうして琉球は、半独立国として自治体制こそ維持できたものの、薩摩藩の実効支配を受けることになります。薩摩藩から在番奉行が送られ、琉球国内の政治にあれこれ注文を出し、貿易の利権を取り上げるといったことが行われるわけです。
琉球は名目上、明の冊封国になっています。いかに形式上のこととはいえ、冊封国が他国に攻められたら明としても黙って見ているわけにもいかないはずです。しかし、このころちょうど、明は北方の女真族の進出によって滅亡してしまうのです。明の後を継いだ清は女真族の王朝です。それまで中国大陸を支配していた明の遺臣たちを平定するのに忙しく、中国から見れば辺境の琉球にかまっている暇はありませんでした。
清による漢人の支配というのは、満州族の風習である独特な髪形「辮髪」を強制していくといったことで行われます。そうしなければ処刑されてしまうので、漢人たちは渋々従うしかありません。こうして中国内での漢人の帰順が進み、治世が落ち着いてくると、そのうち周辺の冊封国にも清の帰順政策が及ぶのではないかと危惧されることになります。
実際、3代将軍家光の時代には、清が琉球に辮髪を強制してきたらどうするかということが議論されます。幕府は、もし琉球が清の風俗を強制されれば「日本の瑕」になると考えていました。つまり、日本の配下に収めたはずの琉球国が清に従うことになれば、面子にかかわるというわけです。
このときはまだ、清と事を構える気はないけれども、琉球国は自分たちの支配下にあるので、何とかこれを守らなければならない、というのが日本の立場でした。
ところが、4代将軍家綱の時期になると、琉球に対する幕府の立場は後退します。もし清が琉球の人たちに辮髪を強制してきたらどうするか、家光のときにはまだ結論が出ていなかったのですが、家綱は薩摩藩に対して、もしそういうことになっても構わないという指示を出すのです。つまり、清が琉球に風俗を強制してきたらこれを守るというところから後退し、何かあったら切り捨ててしまうという立場に変わっているわけです。
結局、明が清になっても何も起こることなく、辮髪を強制されることもないまま、琉球国は清と改めて冊封関係を結び、今まで通り朝貢貿易を継続します。日本に対しては薩摩藩の在番奉行を受け入れ、貿易の利益を吸い取られながらも自治体制を何とか維持するという状態が続くことになります。
こうして、薩摩藩を通じて日本の勢力圏の中に組み込まれた琉球は、だんだんと日本にとってなくてはならない重要な地域になっていきます。
まず、大きかったのは貿易がもたらす利益です。江戸時代の中ごろになると、蝦夷地の産物である干鮑、昆布、いりこなど、「俵物」と呼ばれた海産物を輸出するという形で行われました。その規模は、当時、幕府唯一の直轄貿易港であった長崎と比べても無視できない規模だったと言われています。
もう一つ大きかったのは、幕府の威光を示すのに、琉球は格好の存在だったことです。日本で将軍の代替わりがあったり、琉球国で王の代替わりがあったりすると、そのたびに琉球使節が江戸まであいさつにやってくることになります。薩摩藩としても、琉球の使節を江戸まで連れていくことは、藩主の官位が上がるメリットがあるので、率先して連れていこうとします。
琉球は「異国」とされており、装束も何も日本とは違います。異国情緒あふれるいでたちで江戸の町を練り歩けば当然目立ちますので、江戸幕府の支配が異国にまで及んでいることを民衆に印象付けることができるわけです。
江戸時代には、朝鮮からも「朝鮮通信使」という使節が来ており、琉球同様、幕府の威光を示す格好の存在だったものの、江戸時代後期になると来なくなります。そのため、天保期に琉球使節が江戸に来たときは、久々の外国の使節ということで、日本では琉球ブームが起こります。琉球関係の書籍がどんどん売れ、使節の行列がやってくるとなれば、皆こぞって見物に行くという騒ぎになるわけです。幕府が薩摩藩に対して、「琉球の使節には、できるだけの異国風の格好をさせろ」とわざわざ指示を出していることからも、幕府にとっては、威光を示すのに大いに利用していたことがわかります。
更新:11月24日 00:05