2018年12月28日 公開
2023年01月05日 更新
天文24年(1555)9月22日、いよいよ陶晴賢は500艘の大船団を組んで厳島に押し寄せ、兵を続々と上陸させ、2万の大軍で宮ノ尾城を取り囲んで攻撃を開始した。城兵は、わずかに500人。攻撃開始からわずか数日で、堀を崩され櫓は傾き、まさに落城寸前の状態となった。
さすがの元就も焦りを覚えたのだろう、息子の隆景に対して、
「村上水軍の来援はまだか」
と矢のような催促をした。隆景は村上氏から好感触を得ていたものの、いまだ応援の船影は海上に見えない。
9月27日になっても、村上水軍は現れなかった。そこでこの日、元就は隆景に次のような書簡を認めた。
「宮ノ城(宮ノ尾城)、はや殊のほかに弱り候て見え候由、申し候。尾頸の堀は早々ことごとく埋め候よし申し候。心遣いこのことに候。なかなか申すもおろかにて候。しかる間、今においては、来島(村上水軍来島衆)も何もいらず候」(『小早川文書』)
これ以上、村上水軍の来援を待っていたら、宮ノ尾城は落城してしまう。そうなったら、作戦は完全に失敗に帰する。もはや村上水軍など必要ない。自分たちの力だけで厳島に上陸を敢行して一気に敵を屠るから、ただちに小早川水軍を率いてやってこいというのだ。
そこには元就の悲壮な決意とともに、村上水軍を味方にできなかった隆景に対する痛烈な批判が込められていたように思える。
だが、隆景はこの時点になっても、村上氏の来航を信じて疑わなかった。そこで、隆景は信じがたい行動に出る。
「アミ船(漁船)ヲ誘ヒ、船ニ心得タル侍二人猟師釣人ニ仕立、我ハ船底ニカクレテ、数百艘ノ周防兵(東軍)ノ船ノ間ヲユルユルト魚ウリテ通リテ磯近ク成リケレバ、隆景モ櫓ヲ押テ城ノ岸ギハヘ付テ則チ城ニ走リ入りケル」(『中国治乱記』)
なんと、漁船に隠れて厳島へと渡り、宮ノ尾城へ入ったのである。その結果、「城中ニハ是ニ力ヲ得テ悦事限リナシ」とあるように、城兵の士気はにわかに上がったという。
隆景は、あと数日以内に必ず村上水軍が来援すると信じており、それまでなんとか宮ノ尾城をもちこたえさせるため、あえて危険を冒して厳島へ渡り、城に入って城兵たちを励ましたのである。
その後、隆景は宮ノ尾城から、元就が本陣をかまえる厳島対岸の地御前火立山にもどっていった。それにしても、なんとも大胆な行動である。
翌28日、村上水軍が200艘の大船団を組んで、海の彼方から現れた。
ただ、その向背はいまだ明らかではなく、元就は固唾を飲んで船隊の行方を見守った。
村上水軍は厳島ではなく、元就が本陣をかまえる対岸の地御前火立山に近づいてきた。この瞬間、おそらく元就は狂喜したことだろう。
――9月30日、この日は暴風雨だった。
だが元就は、風雨激しく吹きすさぶなか、夜陰にまぎれて毛利軍を二手に分け、厳島への渡海を強行したのである。無謀としかいいようのない行動であった。けれど数倍の敵を寡兵で倒すには、こうした無茶もやむをえなかったのだろう。元就率いる本隊は、包ヶ浦から上陸して晴賢が本陣をかまえる塔ノ岡の背後をいきなり突いた。
いっぽう、隆景率いる別動水軍は、厳島神社の大鳥居、つまり真正面から堂々と島へ向かっていった。そして、さも村上水軍が来援にやってきたように見せかけて港に入り、援軍だと欺いて上陸を敢行、味方の合図を機に豹変して陶軍に襲いかかったのである。
陶氏の水軍は、毛利軍の攻撃によって次々と沈没し、あるいは形勢の不利を見て毛利軍に寝返っていった。なお、前後から挟撃された陶氏の大軍は、大人数ゆえにたちまち大混乱を来し、味方討ちをするなど失態を演じつつ、まもなく自壊していった。
敗兵はいずれも海辺をめざして遁走を始めたが、浜辺に出てみると、なんと、港に停泊していたはずの大船団は、いずれも沈没するか岸から離れてしまっており、陶氏方の兵は絶望を胸に抱きながら次々と毛利兵に討たれていった。
ここにおいて、ついに陶晴賢も逃亡を断念し、自刃して果てたのだった。
厳島の戦いは、調略、軍略ともに冴えを見せた小早川隆景の働きにより、毛利軍の鮮やかな大勝利に終わった。以後、毛利元就は一気に中国の太守へと駆け上っていくことになる。
※本稿は、河合敦『歴史の勝者にはウラがある』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
更新:11月25日 00:05